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Aqoursのパフォーマンスにおける「正解と不正解」

 

「パフォーマンスにおける正解とは何か」

 

 

 

 

おそらく文化活動で客観的に自身の表現に向き合うようになれたとき、

多くの人がぶつかる問題の1つの極致ではないかと思う。

 

というのも自身の表現を一歩離れて見つめ直したとき、

こうした方がいいんじゃないか、こうしない方がいいんじゃないか、

というレベルで葛藤するのは特に音楽等に関わる人間にとって不可避なことであるからだ。

 

しかし「正解か不正解か」という観点は文化活動の分野において、

果たしてそもそも存在するのか分からない。

 

 

 

なんにせよ「正解・不正解」というレベルでの判断は、

自身の表現を評価する能力が相当に長けていないとできないし、

そこまではっきりと断ずる強い意志が必要である。

 

 

私個人の吹奏楽やオーケストラでの経験から考えても、

音楽表現に「正解・不正解」という言葉を使うのは事実として、

国内でも指折りの実力を持つ指揮者くらいであった。

 

 

 

 

 

だからこそ私には大変驚き、印象に残っているAqoursキャストのインタビューがある。

 

「ほとんど(の曲)が初披露だったけど、1曲終わるたびに喜んでくれると、『あっ、正解だった』っていう気持ちがあったよね」

 

株式会社ロッキング・オン 月刊カット5月号 73頁

Aqours 1st Liveについて高槻かなこさんのコメントである。

 

 

この感覚のニュアンスはパフォーマンス中において大切な感覚で、

私自身もポップス系の曲を演奏する際によく感じている。

 

というのも、お客さんにどうしたら楽しんでもらえるかいくら考えても、

練習場には録音機器と鏡しかないわけで、そこに自分が求める答えは映らないのだ。

 

 

ステージに立って、お客さんと向き合って始めて自分が磨いてきた表現が間違いではなかったと知ることができる。

いくら厳しい練習を積み重ねても、当日その日を迎えるまで常に自分の努力はこの方向でよいのか常に不安と隣り合わせだ。

 

お客さんが喜ぶツボみたなものはやはり実際にステージを重ねないと分からないものだ。高槻さんはステージ経験自体はまだ浅いこともあり、そのツボの感覚はこれからまだまだ伸びていくものだと思われる。

1stではインタビューの答えにある通り、本番中1曲1曲確かめていくような感覚だったのだろう。

 

 

 

 

そんな不確かさに囲まれたなかで、彼女は何故自分達のパフォーマンスに「正解」という言葉を使えたのだろうか。

 

 

その理由の一端が以下のインタビューから感じられた。

 

会場に圧倒されないように、歌やダンスのパフォーマンスに関しては、かなり自信が持てるぐらいまで練習を重ねました。

 

株式会社学研プラス 月刊声優アニメディア5月号 35頁

 

初めての大舞台に挑むにあたり、かなり自信が持てるほどの積み重ね、

これが「正解」という言葉が出てくる1つの根拠に思える。

 

 

 

例えば、ある目標達成に及ばなかったアプローチを考えたとき、

果たして自分に足りなかったのは努力の量か、方向性か、簡単には分からない。

そして努力の量については、結局やったかやってないか、あるいはどこまでやったか、というレベルの話なので「正解」という言葉が使われるようには思えない。

 

 

少なくとも向上心が強く練習に熱心な音楽家で、努力の量に正解不正解という言葉を使う人を私は見たことがない。

 

 

 

 

インタビューで分かる通り、彼女は1st Liveにおいて努力の量が心配になる世界にはもういなかった。

「歌やダンスのパフォーマンスに関しては、かなり自信が持てた」という表現から、

自身の決めた方向性において、十分な表現ができると思えるくらい純粋な技術面においては不安がなかったのだろう。

 

 

 

問題が表現の方向性に集中していたからこそ「正解・不正解」のレベルで自分のパフォーマンスを考えられる段階にいたのではないだろうか。

 

 

 

 

では高槻かなこさんが目指した方向性とは何か。

これは「国木田花丸としてステージに立ち、お客さんを楽しませる」ということではないかと私は考えている。

 

以下のご本人のコメントを根拠として紹介したい。

 

(ミュージカル場面でまばたきといった細部までアニメに合わせたいという発言について、何故そこまでこだわりたかったのかという質問に対して)

あの場所(1st Live)に“国木田花丸”として立ちたかったからです。(中略)「花丸ちゃん」として観てもらえるか不安もすごくあったんです。

 

株式会社山栄プロセス リスアニ!Vol.29 24頁

 

私が私としてステージに立つのではなく、ステージに立つ花丸ちゃんがどうしたら可愛くなるかの研究。
その時は一生懸命すぎて自然にやってたけど、今思えばそう。
あの二日間、確かに私はマルちゃんでした。
誰に何と言われても!

 

本人Instagram(kanako.tktk 3/9投稿より

 

その他にもいくつかの場面で国木田花丸とのギャップに悩んでいたこと、

そして国木田花丸としてライブのステージに立ちたかったことを言及されていた。

 

 

花丸ちゃんとしてステージに挑むために高槻さんは本当にそのときできるあらゆることをやってきたのではないかと思う。

それでも、それが正しかったのか幕が上がるまで決して分からないのだ。

そして本番お客さんの反応をみて「自身が国木田花丸としてライブに立てている」と確信したのかもしれない。

 

高槻さんが「正解」だったとはっきり言えたのは、

中途半端に方向性をぼやけさせず、自身が目指すもののためにはっきりと彼女がポジションをとったからこそではないかと私は思う。

 

 

音楽において中途半端な表現は誰にも刺さらないし、それは自分の答えを出しているとは到底言えない。

これが自分のパフォーマンスだ、答えだ、とはっきり言うには人間それだけの根拠をもって自身の立場を明らかにしなければならない。少しでも誤魔化そうと思ったり、詰めを甘くしてはいけないのだ。

 

 

 

 

「正解」という表現に至るまで、私などでは想像できない様々なことがあったと思う。

そしてその先へと越えていったのだろう。そんな考えをかき立てられる言葉であった。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、ここに1つ大きな問題があるように思える。

 

 

 

それは、我々オーディエンスが完璧な聴衆ではないということだ。

 

 

キャストの方々が「お客さんを楽しませる」という目標を掲げたときに、

その結果の成否は全て我々の反応によって決まる。

このときは特に何も問題は起きない。

 

 

 

一方、「キャラクターとして」という目標が掲げられたとき、

その成否はどう判断されるべきなのだろうか。

 

 

私には、例えばより多くの人が「キャラクターらしい」と判断するパフォーマンスが「正解」とは到底思えないのだ。

世の中に音楽のための音楽が間違いなく存在するように、

演技のための演技もまた存在するのではないだろうか。

 

 

もし存在するとしたら、それは果たして一般大衆に伝わるものなのだろうか。

 

 

 

オーケストラという場において、はっきり言うと分かる人だけ分かればいいという暗黙の了解も少なからずある場合が存在する。

同じオーケストラの同じ指揮者による同じ日の同じ曲の録音でも音楽が違うときがあるのだが、

おそらく普段からクラシックに慣れ親しんでいないとほとんど伝わらないだろう。

 

だがそれで問題ない。

気づける人だけが、その音楽の違いに気づくことができればそれで間違いなく十分なのだ。わざと過度にその違いを強調するほうがよっぽどナンセンスである。

 

 

 

分かりやすくより多くの聴衆を興奮させることと、僅かなとこでより音楽的に表現することを比べたとき、

基本的には後者が圧倒的に重要なのである。

 

何故なら音楽的であることがクラシックの求める世界だからである。

 

だが、より音楽的だという判断はどう成されるべきなのか…...

 

 

 

 

Aqoursのライブで「よりキャラクターらしいパフォーマンス」と「より多くのお客さんが喜ぶパフォーマンス」と2つのパラメーターをとったとき、

超越的視点でみたときその2つが最も高いレベルで調和している状態と、

より多くの人がそう感じる状態は果たして一致するのだろうか。

 

一般に多く伝わる表現と演技のための演技、どちらを重視するのが正しいあり方なのか。

後者が重要だとしたら我々はそれに気づけるようにあるべきなのだろうか。

 

 

 

キャストがキャラクターの1番の理解者としたとき、

我々はどこまでその視点を共有できるのであろうか。

 

 

 

 

 

Aqoursの出す「真の正解」が「事実として正解」になるよう、

キャストの方々に置いていかれないようAqours18人を少しでも理解できたらいいなと、そんなことを考えている。