パラボラアンテナ

Aqous中心のブログっぽいなにか

だから、ラブライブ!サンシャイン!!

Aqoursと夢

 

 

 

あなたは夢を持ったときのこと、覚えているだろうか?

 

 

 

 

 

 

作品にいろんな感想を持つのは、持つだけなら、それは個人の自由だ。

でも、人と夢の関係を、なんとなく忘れてしまっている人が多いのではないかと思った。

そんなことを思いつつの私なりの意見である。

 

 

 

・人が夢を持つとき

 

私は常々ラブライブ!において「夢」がキーワードだと思っている。

そしておおよそ現実問題として、人が夢を持つパターンは2つあると考えている。

 

1つ目は、自分が先陣を切って歩いている道の先に、何かが見えたとき

そしてもう1つは、誰かの姿に憧れたその瞬間である。

 

始めに断っておくが、この2つ優劣をつけるつもりは全くない。

どちらにも、もう一方にない難しさや葛藤がある。どちらの物語がその人にどれくらい刺さるかなんて、個性でしかない。

 

 

ただ、私は絶対数の問題として、人は後者の在り方で夢を持つ場合が多いのではないかと思っている。

 

思い出していて欲しい、幼い頃のぼんやりとした記憶でもいい。

あなたが夢を持った瞬間も、目に映る何かに強く心を奪われたからではなかっただろうか。

 

 

 

 

 

ラブライブ!サンシャイン!!という作品

 

この作品に私が思う強さとは、人の夢に正面からぶつかっていく姿勢だ。

作品と現実がリンクするこのコンテンツにおいて、今の方向がいかに正しいか個人的に考えていることを書いていきたい。

 

さて、私も常日頃、μ’sとの関係について沢山の意見を目にする。

最たるものはやはりμ’sを現実にも作品にも出しておきながら、その扱いが中途半端だ、というものである。この中途半端という言葉にもたくさんのニュアンスがあるだろうし、この場で具体的な反論をしても何一つ意味がない。

 

なので、ひとまず今の在り方を何故肯定的に捉えるべきなのかに触れる。

 

まず、そもそもμ’sの存在を持ち込むべきだったのかということから考えていきたい。

これについて私は100%持ち込むべきだったと主張している。

 

理由として第一に、現実と作品のリンクだ。

「夢」がキーワードたるこのコンテンツで、私は夢への動機がキャストとキャラクターで合致することこそ作品の心臓になるとみている。単純に活動への根源的欲求が一致しているのは無条件で強い説得力に繋がる。

これを前提にキャストの環境を考えると、まずラブライブ!というコンテンツに参加しようとするにあたり、当然だがμ’sを知らなかった者はいない。そして、先駆者の辿り着いた姿を見たからこそ、それに憧れ、その道を選んだのだろう。

彼女たちの夢は間違いなく、誰かの姿に憧れて抱いたものだった。

 

そして第二に、ラブライブ!という地続きを考えたときだ。

劇場版の「みんなの、スクールアイドルの、すばらしさを、これからも続いていく輝きを、多くの人に届けたい」という台詞。その前にある「これからもラブライブは広がっていく」という言葉もあいまって、未来の可能性に向けたエンディングだったと私は感じた。

μ’sという存在を除外するのは即ち、先駆者が未来を想い自らの物語に幕を閉じた世界を消すことである。プロジェクトが共に行き着いたスクールアイドルの重大な答えを抹消することに等しい。

確かに全く新しい世界で全く新たなスクールアイドルの概念を提示するという道もあっただろう。だが、それこそ初代のエッセンスと正面から対立しかねないと思う。

同じ答えを別の方法で提示しても、前提を同じ開拓者という立ち位置にする以上、違うルートで同じ答えに至るリメイクに過ぎない。

 

 

これらの理由により、私はサンシャイン!!が真にラブライブという名を冠して独立した作品になるには、作中に先代の姿があるべきだったと考えている。

そしてそれを踏まえると、Aqoursが「追いかける者の物語」になるのは必然だったのではないだろうか。即ち、現実でも作中でも先駆者の姿があってこそなのだから、夢へのアプローチは「誰かの姿への憧れ」以外ありえなかった。

 

そして憧れから出発をすると、その夢、本作の場合は「μ’sのようになりたい」と、どう向き合うかが重要な問題になってくる。肝は“のように”である。

つまり夢の本質は、μ’sになることではなく、自分たちはどうすれば強い輝きを放つスクールアイドルになれるかであった。あくまでμ’sは代表例に近い存在といえる。

でも、現実として自分の夢のきっかけは、いつまでもヒーローだ。

それ故、世の中の夢を追う人は自分自身になるために、常に戦っているのだと思う。

この問題に正面からぶつかっていった1期のAqoursは、物語終盤で遂に進むべき道を見出した。もしかしたらこの後、自分であるための大きな戦いが待っているかもしれない。

 

 

 

 

・点か線か

 

サンシャイン!!アニメ本編でμ'sの扱い、解釈について、どうあるべきかという議論もある。

主に2パターンあって、

1つはスタッフがμ'sの活動をほぼ網羅している以上、線として活動を解釈しより正しく登場させるべき、という立場

2つは千歌ちゃんたちがμ'sの活動を雑誌等で通して容易に知ることの出来る、点としての要素のピックアップで良い、という立場

だと私は考えている。

個人的には後者の立場で、物語上ある程度は無茶できるとしても、あまりに線で捉えられていたら、その知識はどこから仕入れたものかと疑問に思うし、それほど盤石な解釈をみせるならそれはμ'sの物語に片足突っ込むことになるように感じる。これは主観でしかないが。

ただ私個人がそもそも当時μ'sについてアニメと映画本編を一度見た程度の知識しかなかったこともあってか、作中での扱いや解釈については正直全く違和感はなかったことは述べてく。そういう意味ではリアルさもあったし、Aqoursから本格参入した身としてはちゃんとAqoursの物語に集中できた。

 

作品解釈の正解不正解について議論はあるだろうが、

点での引用でありつつ、ちゃんとエッセンスを抽出できていたのではないかと思う。

ややアクロバットな根拠だが、

線と点の対立は概ねサンシャイン!!が無印を正しく引用できたかどうかによるという前提で、

つまりまず作品解釈については、答えがあるという共通意識があるはずだ。

そして、作品の答えは作者に帰属する以外はありえない。受け手が決めていいなら答えは無限に存在するし、最悪そう結論付けても許されることになる。

我々は作品の答えについて、作り手から見出そうとするしかない。

今回の場合は、無印とサンシャイン!!の作り手が全く同じでないからこそ問題が複雑である。ただ、サンシャイン!!における無印の正解はサンシャイン!!にしかない。

そして前任者がプロジェクトを去った以上、現スタッフの解釈を正解としない限り、受け手の解釈が1つなるなんて有りえないので、答えが不在になってしまうという問題もある。

また、それでも、解釈が無印の制作者のそれと異なるというのであれば、その言葉が自分にも返ってくることを忘れてはならない。

 

 

 

 

・引用の手段は正しかったのか

 

つまりサンシャイン!!で伝えたかったことを表現するために引用されたμ'sの姿は適切だったのかという問題だ。言い換えれば、本編メッセージを表現するのに例えばμ's各メンバーをあのように表現するべきだったのかという話である。

だが、これは最初からあってないような問題である。

というのも作品において伝え方もまた一つのメッセージだからだ。

私の領域での例えで恐縮だが、例えば人の喜びや悲しみは、古今東西様々な音楽で表現されてきた。しかし、1つとして同じ表現は存在していない。

喜びを表現するのであれば、ベートーヴェンの第九から歓喜のテーマを流用すれば、クラシックの人間なら的確にその意図を把握するだろう。だが、そんなことをする作曲家は存在せず、歴代の偉人たちは必死に自身の喜びを伝えるテーマを考えてきた。

それはとても簡単なことだ。この世において人の喜びもまた、1つとして同じものは存在しないのだ。別々の人生を歩んできた人たちが、同じものに対して感動したとして、全く均質な感情の動きをするなんてありえない。

自分自身の言葉でその感情を語る必要がある。

そう考えれば、その表現自体が、伝えたいことに対して重要な意味を持っていることが分かる。

 

ちなみに世の中には「~主題による変奏曲」というクラシック音楽作品が存在する。

こういった作品は過去の有名作品の1フレーズなりをとってきて、元の曲で与えられた意味から離して、自身の作品内であれこれ料理するといったものだ。

このジャンルであっても、今なお演奏されている曲も多く、芸術的価値が高いとされている作品がある。

結局我々が考えるべきなのは、その作品自体なのだ。作品そのものの狙い、引用の意図を考えるのに、引用されたもの本来の要素が役に立つときもある。でもそれだけだ。

引用の仕方の正解は、その作品の中にしかない。材料本来の解釈は、その作品の評価に何の意味も及ぼさない。それは引用された作品の話である。

もしその表現の意図を、その正解を受け入れられなかったら、それは作品の優劣ではなく、残念ながらその人の好みでしかない。

 

好みの話題に付随すると、より多くの人に受け入れられれば受け入れられるほど優れた作品なのかという問題がある。

これは全くのナンセンスであり、誰にでも伝わる1+1=2は残念ながら表現ではなく、ただの記号化されたロジックに過ぎない。

そもそもラブライブ!は大多数に受け入れられる存在を目指すより前に、まず「自分たちらしくあること」の重要性が説かれた作品ではなかったか。

 

 

 

 

 

・現実と物語の具体的なリンク

 

そもそもこの問題もどこまでが無視される前提なのか、なかなか決め難い。結局個人の趣味の範疇による。

例えば、時間の有限性はリンクしていても、キャストは女子高生じゃないからリンクしないとか言い始めたらコンテンツのある種崩壊だ。

私は環境の重大な要素にこそ重なる部分があるべきだと考えている。前述の杜撰な例だと、スクールアイドルをスクールアイドル足らしめる要素とは、「女子高生」ではなく「時間の有限性」だ。

 

この発想に基づくと、Aqoursの現実と物語の合致は、夢への道筋によく表れている。

 

まず、前述のとおり、根源的な夢への同期がリンクしている。これについては前述の通りだ。

そしてキャストのメルパルクホールでの初公演。憧れからスタートし、不安と期待の入り混じった本番、世間にμ’sを知っている者が多いからこそ、自分たちがまだ何も見せられていない時点で席が埋まるか本人たちも不安だったのかもしれない。

逆に、μ’sを知っている者が多いからこそ席が埋まった本番でもあった。

偉大な先駆者ありきの初ステージ、まさにアニメの体育館講演である。

 

アニメ1期放送期間付近のキャストの姿を思い返すと、アニメで動くキャラクターを見て、演技や自身のライブパフォーマンスにそれまで以上に悩んでいた印象がある。

そして高槻かなこさんの「みんなと比べなくてもいいんだ」「私は私でいいんだ」という自身の演技への思いの変化、そして自分なりに国木田花丸を研究しそれを正解にしていく姿から象徴されるように(といってもこれは私が高槻さん推しなのでこのエピソードを代表例にしてしまっているだけなのだが)、まさに他者の影を越えて、「自分自身になる」重要な期間であった。

それはμ’sのようになるには、夢を叶えるには、なりたい姿になるにはどうしたらいいのか、必死に考えていた作品中でのAqoursの姿に重なる。

目標に至るために、現実でも作品でも、他者との関係と自分自身の在り方という大きな壁に悩んでいた。

 

 

その成果はご存知1st Liveで存分に披露された。各キャストが各キャラクターとして挑んだ大舞台では、ああこのキャラクターならこういうダンスの動き、こういう歌い方をするな、と納得できる説得力があった。

あの日を境に、世間におけるAqoursが“相対”から“絶対”になったように思える。

これもまた高槻さんの言葉だが「『これがAqoursだ!』っていうものを示せた時間になったな、と思います」というインタビューをみてそんな実感を確信したことを覚えている。

 

アニメでも最終話でのライブは、自分たちを唯一の存在として認識し、自分たちだけの道を歩み始めた姿が描かれた。

「追いかける者」の物語は、多くの悩みを越えて「自分自身」になれたとき、ようやく幕を開ける。本当の意味で自分自身の未知なる世界が拓ける。

そういう意味で『MIRAI TICKET』という曲はまさにそれに即していた。

≪みんな みんな 迷いながら ここへ辿り着いたね これからだよ≫

≪あこがれ抱きしめて 次へ進むんだ≫

という歌詞にAqoursと夢の関係がよく表れているなと感じている。

 

「0 to 1」というテーマのもと、始まりの終わりで、現実も作品も「Aqours自身」になったのではないだろうか。

 

 

 

 

 

☆更にラブライブ!サンシャイン!!

 

 

 

・この物語は是か非か

 

ナンセンスな問いである。サンシャイン!!は「追う者」としての物語を正面から歩んでいる。意欲的かつ都合主義でもなく、なおかつ変化球ではない。

先代と比べて人を選ぶようになったという意見もあるが、反面私のようにここから強くラブライブ!に入り込んだ人間もいる。

より多くの人に伝わるべき?それは作品から論理を取っ払うか、火は熱いとだけ言うようにすればよい。虚しいこと限りない。

無印劇場版は特に素晴らしい作品であった。でもあの作品の本質はアニメ本編への一定の理解があってこそ伝わるように感じる。リテラシーという点では大いに人を選んでいるのではないか。でも、だからこそメッセージが重いのだ。

 

 

 

 

μ’sAqoursどちらが優れたコンテンツか

 

ナンセンスな問いである。クラシック奏者の私から言わせてみれば大真面目に世界史上最も優れた音楽家を決めるようなものだ。それぞれにそれぞれの意義がある。

どういった視点に重きを置くかで結論は変わるうえに、総合的に考えるなんてことがそもそも不可能だ。1つ1つの価値観の優劣さえ決められないのに、何故包括的な視野で判断ができるのか。

 

 

 

 

ラブライブ!とは

 

サンシャイン!!はラブライブ!の名前を冠していながら、ラブライブ!を誤用しているといった意見もある。

残念ながら事実はその逆だ。公式が今なお引き継いだ要素こそラブライブ!のエッセンスである。つまり、そういった意見を述べる人こそラブライブ!を誤用している可能性が高い。

繰り返しになるが、作品の根幹、共有されるべき正解は作り手にしかない。プロジェクトで共有され続けるモノこそがラブライブ!である。

 

 

 

 

 

・プロ意識という言葉

 

先日Twitter上でフォロワーの方が、プロ意識とはそもそもなんだ、というような投げかけをされていた。

私はプロ意識について「その道で生きていく覚悟」だと考えている。

この1つ前の記事で延々と書いたのだが、私は先日一介のアマチュア音楽家でありながら、プロオーケストラに参加させていただいた。

そこで私が身をもって理解したのは圧倒的なまでの意識の差であった。アマチュアからみたら、そこまでやるのか、ということをさも当然のごとくやっていた。

私にとっての特別は、プロにとって当たり前なのだとようやく理解した。

それこそが技術といった誰でもわかる表面的な差に、それも埋まることのないものとして、現実になっている。

明日さえも分からないときがある、芸能の世界で生きていく人たちは、言葉の通りそこに人生を懸けていた。それを可能にする能力と、それを支える意識があった。存在こそ知っていたつもりだったが、その熱量は恐ろしいものだった。

 

なんとなく、私が受ける印象だが、逢田さんのプロ意識はその点で凄まじい熱量を感じている。

1stでのピアノについてはブログの最初の記事にも触れたように、楽器を長年やっている身として本当に異常としかいえないレベルだった。パフォーマンスだけじゃない、そこまでの技術とそこに至る積み重ねとその根底の意識がだ。

初めて『君のこころは輝いてるかい?』を披露したときの逢田さんの歌を聴いたとき、特段私は感想を抱かなかった。

でも最近はどうだろうか。ライブでも音程やテンポの安定感はあるし、特に2nd Live 神戸公演Guilty Kissで入りにミスがあったとき自然すぎる復帰の仕方には目を見張るものがあった。落ちたところに戻ろうとすると特に最初の一音はリズムがぶれやすく、次の二音目が短くなるか、長くなるか、そもそもリズム自体が前に転ぶか遅れてしまうかになる場合が普通だ。

しかしそこに違和感なく戻るテンポ感は生まれ持った能力と、なによりそれができるようになるまで研鑽する姿を想起した。

『Landing action Yeah!!』のSolo ver.では冒頭のリズムと強拍の難易度が高いメロディを見事に歌っていた。メンバートップクラスの技術である。

音楽は練習してないことができるようになるほど甘くない。最初の印象を踏まえると、現在の水準は驚くべきことである。

8/29のインスタグラム投稿も読み手を惹きつけるものであった。

これほどまでの現在のレベルに「きっとこんなんじゃ終わらない」と言う意識。

我々アマチュアであれば、到達さえ難しく、故に手放しに喜びそうな成長に対して「こんなんじゃ終わらない」という言葉が出てくるのは、やはりその世界で生きていく人たち特有の意識に思える。

 

これも、なんとなくなのだが、逢田さんは2ndでのミスについてとんでもなく悔しく思っているのではないかという気がした。歌もダンスもどんどん成長しているのに、貪欲すぎる言葉を発する意識の持ち主が、あれらのことを是としているようには到底思えないのだ。

それでも、彼女はアイドルだからこそ、ミスに対してステージではそういった気持ちをみせずに笑う。そんな可能性を思う。きっとアイドルにとってそのときベストな選択を彼女はしたように感じている。

 

私でさえ本番のミスは頭にこびりつく。だから次は絶対にそれを越えてやろうと思う。

そのためにひたすら練習を積む。

舞台に立つ者にとってミスは本当に重い。完璧にやり遂げる難しさは嫌というほど分かっていても、許されないと、プロにとってはあり得ないとまで思う。音楽の専門でもダンスの専門でもない彼女たちは、それでもミスを越えるために、自分たちの本当のパフォーマンスのために、今日も戦っているかもしれない。

 

 

・私が見た理想郷

 

2nd Liveで2期のPVが発表された。

千歌ちゃんが「私たちは輝ける。頑張れば絶対って、そう感じたんだ。」そう言っていた。

私はこの言葉をずっと忘れないと思う。

我々は挫折を経て、頑張っても必ずそれが報われるとは限らないと学ぶ。それが真理だ。他の人も頑張っているのだからそれは当然なんだと思う。

千歌ちゃんだってそうだ。1期で頑張ったのに輝けなかった、という経験をした。

それでも、頑張れば絶対に輝けると力強く、そう言った。

青春という限られた時間、彼女たちは頑張れば絶対に何者かになれると知っている。

頑張り続けた先に、輝きがあると知っている。

きっとそこは様々な壁があることを理解しつつも、諦めず果敢に進んでいった先にある、特別な輝きなのだろう。

それはあのとき、私たちが心のどこかで願っていた夢なのかもしれない。