パラボラアンテナ

Aqous中心のブログっぽいなにか

No.10はツラくないという話

先日フォロワーさんと飲酒で対戦申し上げた際にこんな話をしました。


「3rd LiveのWATER BLUE NEW WORLDの幕間アニメで「10!」と言いますか?」

 

結論から言うと、私は絶対に言いません。

 

そもそもステージに立つ者とステージを見る者は本質的に別次元にいるのですから。

 

 

 

 

・12話に限ったこと

 

私は12話について聖良さんの台詞もあって「Aqours9人がそれぞれに勝つ理由を見つけるストーリー」だと思っています。
監督があえて千歌の視点ではなく、別の視点を1つ増やして作ったという12話、そこに正解は明示されていませんが、
結果として我々はAqoursと切り離された存在としての眼を得ました。つまりAqours9人のクローズドな世界がまずあって、それを客観的に観ているのです。
歩道橋での点呼のシーン、「旧Aqoursと新Aqoursの3人と6人が重なる瞬間」という解釈があります。
当たり前ですがその意味が生まれるのは9人が旧Aqoursからの合流があったともいえる歴史を作ってきたからであり、そこに誰かを足すことも減らすこともできません。
場所も歩道橋でなくてもいいし、登ってくる方向も2つかはではなくていいはずです。
それでもそのシチュエーションに彼女たちは導かれ、我々が意味を見出したら、そこに客体的な第三者は入る余地がないように思えるのです。
「みんな一緒に輝こう!」の先の物語です。
彼女たちだけが歌えるのがWATER BLUE NEW WORLDです。
青い羽根が舞った瞬間、我々は彼女たちだけの輝きを見ました。ステージから客席へ、スクリーンの外へ広がるAqours9人の輝き。
そこに受け取る人は必要です。でも、光を放ったのは9人なのです。

 

 

 


・ステージは誰のもの?

 

「ステージの上と下の差」
先日のオタクとの懇親会(懇親会)でこんなことを言いました。リアルでこの話を切り込んでするのは何だかんだ初めてだったようなそうでもないような……。
少なくともどんな舞台であれは私はいつもそれを強く感じます。中高生の吹奏楽部の演奏会でさえ当然に思います。
もしかしたらその道の超一流の方ですと別かもしれませんが私には想像がつかないので、それは今は置いておきます。
非常にシンプルな話です。たぶん、多くの中高生より私の方が専門にしてる楽器については上手く演奏できるでしょう。
それでも私は何があろうと客席からステージに上がることはできません。当たり前だと思う人も多いでしょうけど、あえて改めて考えみてください。
その日のそのステージに向けて誰より練習し、誰より理解しているのは、まさにステージに立つ人です。その人たちより地力があろうと、本番の日に客席にやってきた人間では、代わりが務まるはずがないのです。まぁ奏者が最低限の実力があること前提ですが。
いずれ知らない曲を演奏することも、あるいは振り付けをしらないダンスを踊ることはまず不可能です。
要するに代替不可能な存在として演者はその瞬間ステージにいるのです。そこに責任を負っているわけです。そのステージにおいてはどんな優れた観客も、観客でいる限り、演者には敵わないのです。
同じ時間を使えば自分のほうがもっと上手くできる、そういうこともあると思います。私も思うときがあります。
でも、それを自分はしてこなかった。それは単純に所属といった根本的な資格の存在かもしれません。ただいくらそんなことを言ったところで、客席に座っている自分こそが唯一の現実なのです。

 

 

 

・No.10はツラくない

 

少なくとも今の私はそう思っています。
だって我々はAqoursのステージにおいてAqoursにはなれないから。
コンセプトを否定するつもりはありません。
でも、少なくともNo.10という曲の存在はある意味象徴的です。
一緒に歌うことを前提にされた、9人から10人目への曲。この構図こそ重要ではないかと思っています。

我々は1人1人を尊重してもらったうえで、客席にいるone of themとしての呼称の10人目。
当たり前なんですけど、Aqoursのステージで最も輝くのはAqours9人です。彼女たち1人1人に何万もの観客を笑顔にする力があります。
いえ、それどころか観客を含めた1人1人の人生の輝きの絶対値(空想の産物)もまずAqoursに負けない、というのは難しいでしょう。
あそこまでのステージを作り上げるために沢山のハードなレッスンがあるでしょう。そして普段レッスン以外の時間においても、どれほどの準備が必要になるのでしょう。それを成すだけと気持ちと実践と環境が必要です。厳しいオーディションがスタート地点なのです。やろうと思っても自分だけでおいそれとできるものではありません。
神格化とかではなく、誰かの頑張りへの敬意ってそういうことなんじゃないかなって私は思ってます。
自分にできたことできなかったこと、やったことやってこなかったこと……よく私なんかは傲慢と言われますが、まさか音楽関係で自分より明らかに経験も実力も考えもない人にそれを言われると結構驚きます。この差を認識せず同じ土俵だと思って傲慢と言うほうがよっぽど傲慢だなぁと。
私だって自分より能力がある人になんか言おうなんて全く思わないし、特に自分の分野ではその差に敏感です。

話が逸れましたね。
なんにせよ、この「差」をちゃんと認識することは絶対に重要なことだと私は思っています。
誰かにとっての自分の立ち位置、できることを弁えるという意味でも。

 

私はNo.10というのを「自分の人生を生きるなかでAqours9人の活動を追いかける人」だと思っています。
勝った負けたとか、そういう大変な話ではないはずなのです。勝ちようがないんですから。
これはファンの邪推ですが、コンテンツの2代目ということで常に色んな言葉や視線があったと思います。
そのなかでイベント会場を埋め尽くし、Aqoursを見て笑顔になっていくファンの肯定の姿は、手探りの自信だった彼女たちに何かを与えられたのでしょう。
その必要以上の逆風から歩んできた彼女たちだからこそ、そんな中でも変わらず一緒に歩み続けるファンをあえて10人目と呼ぶのかもしれないなどと私は考えています。

高槻かなこさんは、某コメディアン(コメディアンなのか?)の言葉の「生きてるだけで丸儲け」を大切にしていらっしゃいました。
3rd福岡での「生きててツラいこともあると思うけど」というMCと重ねると、日々を生き抜いてライブで元気をもらうファンのあり方を大切にしてくれてるように思えました。
みんなの居場所はここだよ……そうAqoursのライブを位置づけた高槻さんの言葉。居場所という単語が出てくるのはどれだけ深刻な状態なのでしょう。でもどんなにツラいことがあっても、Aqoursに真っ直ぐにいれば、自分だけの何が0に思えたって生きる理由がある。それくらいの肯定の力を持っていたはずです。

 

多分、Aqoursのライブの瞬間はどんな立派な人だって、Aqoursから輝きをもらう誰かでしかなくて、それ以上の観客はいないんじゃないかなって思います。
それは何も悪いことじゃなくて、そのときステージに立つ人がいる限りステージを見る人がいるというそういう類の話です。
Aqours9人のステージを肯定し完成させるためのNo.10たちは、あくまで観客としての存在です。


私がある種気負わずに割り切れているのはきっと、要するにNo.1〜No.9とNo.10は比べるべくもない。後者になるには真摯な応援だけが必要なんじゃないかって思っているからです。
だってもしあなたがあなたの人生の輝きを見つけたら、それはNo.10の条件ではなく、あなたの人生のNo.1ではないですか?

 

誰かの人生、自分の人生、ステージの上と下、時々で色んな立場になります。
そのなかで自分のステージで一際大きく輝く存在がときに現れます。

何もなければ、特別な存在へと駆け登ったその輝きを享受して、そこから何か自分の人生を探せばいいんだと思います。
そしてその先の種まきである、享受という行為自体がNo.10ではないでしょうか。

輝きを見つけるって出発地点に立つということです。

身もふたもない言い方すると、何かを投げ打ってでも頑張りたい何かが見つかるなんて人生そんなに運良くできていないですし。


ともかく、自分の人生を輝かせればAqoursとして9人と並び立てるなんて、まさか私にはそんなことは全く思えないのです。でも、それでいいんだと思います。

 

 

 

 

ただ、その先にある今まで見てこなかった自分の人生のNo.1に気付いたとき、もしかしたらNo.10はツラいものになるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・私の個人的な険しい話

 

 

この辺は放言なので人によっては回れ右推奨です。
さて、では。

 

正直なところ、私はNo.10は客席までだと思うのです。あるいはファンとしての自分の色が強く出てる限られた瞬間だと思うのです。
少なくも私は、Aqoursのライブに来て、刺激を受けた!頑張ろう!と仰ってる方は見たことあっても、これからもAqoursの10人目として頑張らないと!なんて言ってるアイドルや声優を見たことありません。
当たり前ですよね。だってその人たちには自分のステージがあるんですから。
でもそんな人たちがライブにおいて10人目として輝いているであろうことはきっと間違いありません。
言ってしまえば、No.10は自分の人生を自分のものとして満たされ生きていれば自ずと当てはまるようなものに思えます。

怒られそうな話ですが、10人目になることは結果の付随とも考えています。ともかく目標にはなり得ないものだと思います。せめて動機です。
人によってはあんな風になりたい、輝きたい、そう思うのかもしれません。
でも誰かに付随する存在を目指して、あなたの人生は輝くと言えるのですか?何度も言いますけどNo.1〜9とははっきりした隔たりがあります。
いえ、これはもう好みの話かもしれませんが、自分の人生の輝きを掴むはずなのに真の主体ではない存在の10人目を目指すということが私には全く美しくないように思えるのです。本当に好みの問題かもしれませんが。
結局他人の名前を借りて自分の人生を表現する、それがステージに上がったフリに思えて仕方ないのです。
自分がなりたいものがあるのにライブのとき以外でも誰かの一部になろうとすることって矛盾していませんか?

熱心な誰かを応援する人生、それもまぁありなんでしょう。
でも究極的にその1人がいなくたって変わらず表現者のステージはそこにある。にも関わらずそれを自分の人生と言うことの空虚さに私は耐えられないなと思うのです。
ライブを人生の楽しみにするな、とか、そういう意味ではなく、応援を自己表現の在り方として自分の中心にしたら大変だよねって話です。
あなたがいなくても同じステージが披露されるとして、あなたの代替不能性はどこにあるのでしょうか。あなたがあなたでいる意味はあるのでしょうか。

No.10になることを目標にし続けたら、それはもしかしたら自分自身の人生から遠ざかってしまうかもしれません。

 

 

 

 

 

サイリウム芸が苦手

 

ちょっと前に話題になったやつですね。
まぁ企画そのものもそうですがまず主催者がだいたい苦手です。
勝手に他人のステージで他人巻き込んで、自分の物語を作ろうとする。いや、純粋にキャストへの好意ならいいんですけど、どうにも企画アカウントで自分の話とか始めてしまう人もいましたね。
自分に何もないからって、他人のステージを使うなよ。って感じです。他人を使って自己表現して何が自分の輝きやねんって感じです。
喜んでもらえるから許される、正しいと思います。
でもめちゃくちゃレッスンして練習してお客さんに集中して受け取って欲しいワンシーンだったらどうするんですか?どう責任取るんですか?
リスクをとってまで他人の作品で何か自分の創作を添えようとする精神がイマイチ分かりません。

主催者の動機はアウトプットの質に影響を与えないし、自分の意志も同様である。
だから自分の物語を重ねても問題ない、という考えもできると思いますし、それは正しいと思います。
ただ私はその他人の不誠実さを肯定できるほど心が広くないのです。
オタクなのだから応援しかできないし、だからせめて推しの応援には常に誠実でいたいし、いるべきだなって思います。


他にも、楽しいし、エモくなれるからいい、そういう人もいると思いますけど、
多数がやったら少数は、特にサイリウム芸なんて悪目立ちするし景色を濁らせるのでやらないといけなくなります。
個人で完結するならやるやらないの自由は他人に影響を与えませんが、こういう話のときはそうもいきません。
不確定な要素が渦巻くなかで、他人に半強制を促しかねない企画だなって思います。ライブは自由だ!とか言いながら、そういうレベルの話じゃなくなってることように思えます。
少なくとも周囲に何も思われず選択できる自由が残ってるとかまさか考えてないですよね。

それでも個人の自由では?って思いますか?
だいたいのオタクが同じようにオタク棒振ってるような場所ですよ。うっかりの浮くような行為は負の感情につながりますからね。思い遣ってあげてください。
周囲のあれこれシャットアウトしますか?厄介って言われる人たちのメンタリティみたいですね。


なんとなくですけど、No.10が自分のなかで肥大化してるオタクいませんか?
応援活動することでステージに近い場所に行けてると勘違いしていませんか?


あなたがやっているのは、たぶんとても素敵なことです。
でもそれはファンとして。
自分自身の人生はそこにはないんじゃないでしょうか。


当事者でもないのに、応援して輪に入ったような顔をしていると、いつか手痛い現実にぶつかりそうなものですが。

 


結局、自分の人生で何者になりたいのか、それがないといつまでも自分で輝くなんてできない気がするのです。輝きたいって思うなら、ですけど。

 

 

 

 

でも難しいですよね、

だからNo.10はまずあの場でAqoursの輝きを受け止めることであって、その先で自分自身の活力や動機の発端にすることなのかなって、本題に戻るのです。