パラボラアンテナ

Aqous中心のブログっぽいなにか

あのとき私が見たもの

先日、遂にAqours 1st Live Day2のBlu-rayを観た。
なんとなく、買ってすぐ見れなくて、でもこのタイミングで観てしまったので、
2nd Live Tour ファイナルの大きすぎるインパクトと共に脳内が洪水状態になってしまっている。

ファンとしての私にとっても、やはり1stの衝撃なしに今の自分は有り得ない。
だからこそ、まず、自分のブログで最初の記事でもあるDay2の「想いよひとつになれ」を観て思ったことをそのまま書いてみたい。

 


・ステージに見えた大きな隔たり

私が今回映像で「想いよひとつになれ」を観てある意味一番驚いたのが、階段の段数の少なさだった。
あの日現地にいた私には、ピアノを弾くために逢田さんが登った階段が、とても長くて高いものとして記憶されていた。しかし実際改めて観ると10段に満たない程度の長さでしかなかったのだ。

それでも私は確かに、階段の上と下との間に存在する境界を見ていた。
あのとき、逢田さんがピアノへと続く階段を登ったあの時間は、一瞬のようでいて、しかしとても長く感じた。それはあのステージで演奏をするまで彼女が登ってきた努力の追体験のようで、メンバーの中で1人ピアノに向かってきた故に現れた道にも思えた。
それはAqours加入前に梨子ちゃんがずっと歩んできたであろう道の姿にも似ていた。

ともかく、その光景は同じステージにいながら、まるでアニメの物語のように、逢田さんと他のメンバーが遠い別の場所にいるかのような印象を私に与えた。


そして始まる伊波さんのソロ、もしかしたらあのときの私には、その歌は遠く言葉の届かない場所にいる逢田さんを想った伊波さんの祈りに聴こえていたかもしれない。
届くか届かないか分からない、しかし強い想いが篭っているような響きだった。


しかしその直後、演奏が止まると、ステージの上へ駆け出す伊波さんをはじめとするメンバーの姿により、その境界は簡単に崩れ去った。

 

 

 

 

 

 

・あのとき私が見たもの

境界の無くなったステージで起きてることは、言い得ぬ現実性を帯びて私の目に映っていた気がする。
アニメと重ねて見ていた光景は、いつの間にか現実だけのものになっていた。
もう陳腐になるくらい言われたことかもしれないが、やはり私もあのときこれから起こる「物語」を信じていた。願っていた。


逢田さん以外のメンバーが自分の場所に戻ったあとのステージには、最初のときのような境界は依然消えたままだったような記憶がある。
ただ、やっぱり階段は高く長かったものだったし、遠い距離があるように思えた。

それでもメンバーが言葉に乗せたものは、もう祈りではなく、伝えたいメッセージとして確かに響いていた。
本来なら触れなれない遠い距離を越えて、想いを届けるために、1人1人が全力で手を伸ばし、逢田さんを掴もうとする歌とダンスがそこにはあった。
届け、届け、と叫んでいるようだった。


私はソリストは本質的に孤独な存在だと思っている。9人の音楽を、その瞬間だけは1人で奏でる責任が重くのしかかる。助けは物理的には存在し得ない。
仲間が自分に意識を集中させているだろうことは何となく伝わるが、目が合うことは決してない。ときに声が聴こえる。でも全てを聴くことはできない。
ソロを奏でるとき、その役目を担えるのは当然だが自分自身だけなのである。

それ故に全ての神経をそこに集中させる人も少なくないと思う。私も例に漏れず、演奏に瞬間し過ぎるせいか、本番でソロを演奏したときの記憶はほとんど曖昧だ。
指揮者のどこを見ていかも憶えていないし、どう吹いたかも思い出せないし、何を考えていたのかも定かではない。
周りの世界なんてほとんど知覚できていない。


あのときピアノを演奏する逢田さんの集中力は凄まじいものだったように思える。見るからに普通じゃない空気を放っていた。
大抵ああいうときはイヤモニの音を無意識の力で拾うのが精一杯だろう。
逢田さんは2回目の演奏について「ほとんど記憶がない」と言っている。

 

なので事実は分からない。
でも、私にはステージの1階と2階という届かない遠い遠い距離を越えて、メンバーが歌の端からダンスの指先から飛ばした想いが、確かに逢田さんへ届いているようだった。

 


想いが現実を超えて、物語の景色をつくった瞬間。それこそあのとき私が見たものである。

 

 

「梨子ちゃんが弾いてくれた」と、逢田さん。
それは逢田さんが必死にピアノを練習してその実力を身につけたから、生まれた感覚なのだろう。
でも、もしかしたら、あのギリギリの状態でコントロールできない要素をいつもの優しさでそっとサポートしてくれたのは、皆の想いの力でステージに立った10人目のアイドルの姿だったのかもしれない。

だから、ラブライブ!サンシャイン!!

Aqoursと夢

 

 

 

あなたは夢を持ったときのこと、覚えているだろうか?

 

 

 

 

 

 

作品にいろんな感想を持つのは、持つだけなら、それは個人の自由だ。

でも、人と夢の関係を、なんとなく忘れてしまっている人が多いのではないかと思った。

そんなことを思いつつの私なりの意見である。

 

 

 

・人が夢を持つとき

 

私は常々ラブライブ!において「夢」がキーワードだと思っている。

そしておおよそ現実問題として、人が夢を持つパターンは2つあると考えている。

 

1つ目は、自分が先陣を切って歩いている道の先に、何かが見えたとき

そしてもう1つは、誰かの姿に憧れたその瞬間である。

 

始めに断っておくが、この2つ優劣をつけるつもりは全くない。

どちらにも、もう一方にない難しさや葛藤がある。どちらの物語がその人にどれくらい刺さるかなんて、個性でしかない。

 

 

ただ、私は絶対数の問題として、人は後者の在り方で夢を持つ場合が多いのではないかと思っている。

 

思い出していて欲しい、幼い頃のぼんやりとした記憶でもいい。

あなたが夢を持った瞬間も、目に映る何かに強く心を奪われたからではなかっただろうか。

 

 

 

 

 

ラブライブ!サンシャイン!!という作品

 

この作品に私が思う強さとは、人の夢に正面からぶつかっていく姿勢だ。

作品と現実がリンクするこのコンテンツにおいて、今の方向がいかに正しいか個人的に考えていることを書いていきたい。

 

さて、私も常日頃、μ’sとの関係について沢山の意見を目にする。

最たるものはやはりμ’sを現実にも作品にも出しておきながら、その扱いが中途半端だ、というものである。この中途半端という言葉にもたくさんのニュアンスがあるだろうし、この場で具体的な反論をしても何一つ意味がない。

 

なので、ひとまず今の在り方を何故肯定的に捉えるべきなのかに触れる。

 

まず、そもそもμ’sの存在を持ち込むべきだったのかということから考えていきたい。

これについて私は100%持ち込むべきだったと主張している。

 

理由として第一に、現実と作品のリンクだ。

「夢」がキーワードたるこのコンテンツで、私は夢への動機がキャストとキャラクターで合致することこそ作品の心臓になるとみている。単純に活動への根源的欲求が一致しているのは無条件で強い説得力に繋がる。

これを前提にキャストの環境を考えると、まずラブライブ!というコンテンツに参加しようとするにあたり、当然だがμ’sを知らなかった者はいない。そして、先駆者の辿り着いた姿を見たからこそ、それに憧れ、その道を選んだのだろう。

彼女たちの夢は間違いなく、誰かの姿に憧れて抱いたものだった。

 

そして第二に、ラブライブ!という地続きを考えたときだ。

劇場版の「みんなの、スクールアイドルの、すばらしさを、これからも続いていく輝きを、多くの人に届けたい」という台詞。その前にある「これからもラブライブは広がっていく」という言葉もあいまって、未来の可能性に向けたエンディングだったと私は感じた。

μ’sという存在を除外するのは即ち、先駆者が未来を想い自らの物語に幕を閉じた世界を消すことである。プロジェクトが共に行き着いたスクールアイドルの重大な答えを抹消することに等しい。

確かに全く新しい世界で全く新たなスクールアイドルの概念を提示するという道もあっただろう。だが、それこそ初代のエッセンスと正面から対立しかねないと思う。

同じ答えを別の方法で提示しても、前提を同じ開拓者という立ち位置にする以上、違うルートで同じ答えに至るリメイクに過ぎない。

 

 

これらの理由により、私はサンシャイン!!が真にラブライブという名を冠して独立した作品になるには、作中に先代の姿があるべきだったと考えている。

そしてそれを踏まえると、Aqoursが「追いかける者の物語」になるのは必然だったのではないだろうか。即ち、現実でも作中でも先駆者の姿があってこそなのだから、夢へのアプローチは「誰かの姿への憧れ」以外ありえなかった。

 

そして憧れから出発をすると、その夢、本作の場合は「μ’sのようになりたい」と、どう向き合うかが重要な問題になってくる。肝は“のように”である。

つまり夢の本質は、μ’sになることではなく、自分たちはどうすれば強い輝きを放つスクールアイドルになれるかであった。あくまでμ’sは代表例に近い存在といえる。

でも、現実として自分の夢のきっかけは、いつまでもヒーローだ。

それ故、世の中の夢を追う人は自分自身になるために、常に戦っているのだと思う。

この問題に正面からぶつかっていった1期のAqoursは、物語終盤で遂に進むべき道を見出した。もしかしたらこの後、自分であるための大きな戦いが待っているかもしれない。

 

 

 

 

・点か線か

 

サンシャイン!!アニメ本編でμ'sの扱い、解釈について、どうあるべきかという議論もある。

主に2パターンあって、

1つはスタッフがμ'sの活動をほぼ網羅している以上、線として活動を解釈しより正しく登場させるべき、という立場

2つは千歌ちゃんたちがμ'sの活動を雑誌等で通して容易に知ることの出来る、点としての要素のピックアップで良い、という立場

だと私は考えている。

個人的には後者の立場で、物語上ある程度は無茶できるとしても、あまりに線で捉えられていたら、その知識はどこから仕入れたものかと疑問に思うし、それほど盤石な解釈をみせるならそれはμ'sの物語に片足突っ込むことになるように感じる。これは主観でしかないが。

ただ私個人がそもそも当時μ'sについてアニメと映画本編を一度見た程度の知識しかなかったこともあってか、作中での扱いや解釈については正直全く違和感はなかったことは述べてく。そういう意味ではリアルさもあったし、Aqoursから本格参入した身としてはちゃんとAqoursの物語に集中できた。

 

作品解釈の正解不正解について議論はあるだろうが、

点での引用でありつつ、ちゃんとエッセンスを抽出できていたのではないかと思う。

ややアクロバットな根拠だが、

線と点の対立は概ねサンシャイン!!が無印を正しく引用できたかどうかによるという前提で、

つまりまず作品解釈については、答えがあるという共通意識があるはずだ。

そして、作品の答えは作者に帰属する以外はありえない。受け手が決めていいなら答えは無限に存在するし、最悪そう結論付けても許されることになる。

我々は作品の答えについて、作り手から見出そうとするしかない。

今回の場合は、無印とサンシャイン!!の作り手が全く同じでないからこそ問題が複雑である。ただ、サンシャイン!!における無印の正解はサンシャイン!!にしかない。

そして前任者がプロジェクトを去った以上、現スタッフの解釈を正解としない限り、受け手の解釈が1つなるなんて有りえないので、答えが不在になってしまうという問題もある。

また、それでも、解釈が無印の制作者のそれと異なるというのであれば、その言葉が自分にも返ってくることを忘れてはならない。

 

 

 

 

・引用の手段は正しかったのか

 

つまりサンシャイン!!で伝えたかったことを表現するために引用されたμ'sの姿は適切だったのかという問題だ。言い換えれば、本編メッセージを表現するのに例えばμ's各メンバーをあのように表現するべきだったのかという話である。

だが、これは最初からあってないような問題である。

というのも作品において伝え方もまた一つのメッセージだからだ。

私の領域での例えで恐縮だが、例えば人の喜びや悲しみは、古今東西様々な音楽で表現されてきた。しかし、1つとして同じ表現は存在していない。

喜びを表現するのであれば、ベートーヴェンの第九から歓喜のテーマを流用すれば、クラシックの人間なら的確にその意図を把握するだろう。だが、そんなことをする作曲家は存在せず、歴代の偉人たちは必死に自身の喜びを伝えるテーマを考えてきた。

それはとても簡単なことだ。この世において人の喜びもまた、1つとして同じものは存在しないのだ。別々の人生を歩んできた人たちが、同じものに対して感動したとして、全く均質な感情の動きをするなんてありえない。

自分自身の言葉でその感情を語る必要がある。

そう考えれば、その表現自体が、伝えたいことに対して重要な意味を持っていることが分かる。

 

ちなみに世の中には「~主題による変奏曲」というクラシック音楽作品が存在する。

こういった作品は過去の有名作品の1フレーズなりをとってきて、元の曲で与えられた意味から離して、自身の作品内であれこれ料理するといったものだ。

このジャンルであっても、今なお演奏されている曲も多く、芸術的価値が高いとされている作品がある。

結局我々が考えるべきなのは、その作品自体なのだ。作品そのものの狙い、引用の意図を考えるのに、引用されたもの本来の要素が役に立つときもある。でもそれだけだ。

引用の仕方の正解は、その作品の中にしかない。材料本来の解釈は、その作品の評価に何の意味も及ぼさない。それは引用された作品の話である。

もしその表現の意図を、その正解を受け入れられなかったら、それは作品の優劣ではなく、残念ながらその人の好みでしかない。

 

好みの話題に付随すると、より多くの人に受け入れられれば受け入れられるほど優れた作品なのかという問題がある。

これは全くのナンセンスであり、誰にでも伝わる1+1=2は残念ながら表現ではなく、ただの記号化されたロジックに過ぎない。

そもそもラブライブ!は大多数に受け入れられる存在を目指すより前に、まず「自分たちらしくあること」の重要性が説かれた作品ではなかったか。

 

 

 

 

 

・現実と物語の具体的なリンク

 

そもそもこの問題もどこまでが無視される前提なのか、なかなか決め難い。結局個人の趣味の範疇による。

例えば、時間の有限性はリンクしていても、キャストは女子高生じゃないからリンクしないとか言い始めたらコンテンツのある種崩壊だ。

私は環境の重大な要素にこそ重なる部分があるべきだと考えている。前述の杜撰な例だと、スクールアイドルをスクールアイドル足らしめる要素とは、「女子高生」ではなく「時間の有限性」だ。

 

この発想に基づくと、Aqoursの現実と物語の合致は、夢への道筋によく表れている。

 

まず、前述のとおり、根源的な夢への同期がリンクしている。これについては前述の通りだ。

そしてキャストのメルパルクホールでの初公演。憧れからスタートし、不安と期待の入り混じった本番、世間にμ’sを知っている者が多いからこそ、自分たちがまだ何も見せられていない時点で席が埋まるか本人たちも不安だったのかもしれない。

逆に、μ’sを知っている者が多いからこそ席が埋まった本番でもあった。

偉大な先駆者ありきの初ステージ、まさにアニメの体育館講演である。

 

アニメ1期放送期間付近のキャストの姿を思い返すと、アニメで動くキャラクターを見て、演技や自身のライブパフォーマンスにそれまで以上に悩んでいた印象がある。

そして高槻かなこさんの「みんなと比べなくてもいいんだ」「私は私でいいんだ」という自身の演技への思いの変化、そして自分なりに国木田花丸を研究しそれを正解にしていく姿から象徴されるように(といってもこれは私が高槻さん推しなのでこのエピソードを代表例にしてしまっているだけなのだが)、まさに他者の影を越えて、「自分自身になる」重要な期間であった。

それはμ’sのようになるには、夢を叶えるには、なりたい姿になるにはどうしたらいいのか、必死に考えていた作品中でのAqoursの姿に重なる。

目標に至るために、現実でも作品でも、他者との関係と自分自身の在り方という大きな壁に悩んでいた。

 

 

その成果はご存知1st Liveで存分に披露された。各キャストが各キャラクターとして挑んだ大舞台では、ああこのキャラクターならこういうダンスの動き、こういう歌い方をするな、と納得できる説得力があった。

あの日を境に、世間におけるAqoursが“相対”から“絶対”になったように思える。

これもまた高槻さんの言葉だが「『これがAqoursだ!』っていうものを示せた時間になったな、と思います」というインタビューをみてそんな実感を確信したことを覚えている。

 

アニメでも最終話でのライブは、自分たちを唯一の存在として認識し、自分たちだけの道を歩み始めた姿が描かれた。

「追いかける者」の物語は、多くの悩みを越えて「自分自身」になれたとき、ようやく幕を開ける。本当の意味で自分自身の未知なる世界が拓ける。

そういう意味で『MIRAI TICKET』という曲はまさにそれに即していた。

≪みんな みんな 迷いながら ここへ辿り着いたね これからだよ≫

≪あこがれ抱きしめて 次へ進むんだ≫

という歌詞にAqoursと夢の関係がよく表れているなと感じている。

 

「0 to 1」というテーマのもと、始まりの終わりで、現実も作品も「Aqours自身」になったのではないだろうか。

 

 

 

 

 

☆更にラブライブ!サンシャイン!!

 

 

 

・この物語は是か非か

 

ナンセンスな問いである。サンシャイン!!は「追う者」としての物語を正面から歩んでいる。意欲的かつ都合主義でもなく、なおかつ変化球ではない。

先代と比べて人を選ぶようになったという意見もあるが、反面私のようにここから強くラブライブ!に入り込んだ人間もいる。

より多くの人に伝わるべき?それは作品から論理を取っ払うか、火は熱いとだけ言うようにすればよい。虚しいこと限りない。

無印劇場版は特に素晴らしい作品であった。でもあの作品の本質はアニメ本編への一定の理解があってこそ伝わるように感じる。リテラシーという点では大いに人を選んでいるのではないか。でも、だからこそメッセージが重いのだ。

 

 

 

 

μ’sAqoursどちらが優れたコンテンツか

 

ナンセンスな問いである。クラシック奏者の私から言わせてみれば大真面目に世界史上最も優れた音楽家を決めるようなものだ。それぞれにそれぞれの意義がある。

どういった視点に重きを置くかで結論は変わるうえに、総合的に考えるなんてことがそもそも不可能だ。1つ1つの価値観の優劣さえ決められないのに、何故包括的な視野で判断ができるのか。

 

 

 

 

ラブライブ!とは

 

サンシャイン!!はラブライブ!の名前を冠していながら、ラブライブ!を誤用しているといった意見もある。

残念ながら事実はその逆だ。公式が今なお引き継いだ要素こそラブライブ!のエッセンスである。つまり、そういった意見を述べる人こそラブライブ!を誤用している可能性が高い。

繰り返しになるが、作品の根幹、共有されるべき正解は作り手にしかない。プロジェクトで共有され続けるモノこそがラブライブ!である。

 

 

 

 

 

・プロ意識という言葉

 

先日Twitter上でフォロワーの方が、プロ意識とはそもそもなんだ、というような投げかけをされていた。

私はプロ意識について「その道で生きていく覚悟」だと考えている。

この1つ前の記事で延々と書いたのだが、私は先日一介のアマチュア音楽家でありながら、プロオーケストラに参加させていただいた。

そこで私が身をもって理解したのは圧倒的なまでの意識の差であった。アマチュアからみたら、そこまでやるのか、ということをさも当然のごとくやっていた。

私にとっての特別は、プロにとって当たり前なのだとようやく理解した。

それこそが技術といった誰でもわかる表面的な差に、それも埋まることのないものとして、現実になっている。

明日さえも分からないときがある、芸能の世界で生きていく人たちは、言葉の通りそこに人生を懸けていた。それを可能にする能力と、それを支える意識があった。存在こそ知っていたつもりだったが、その熱量は恐ろしいものだった。

 

なんとなく、私が受ける印象だが、逢田さんのプロ意識はその点で凄まじい熱量を感じている。

1stでのピアノについてはブログの最初の記事にも触れたように、楽器を長年やっている身として本当に異常としかいえないレベルだった。パフォーマンスだけじゃない、そこまでの技術とそこに至る積み重ねとその根底の意識がだ。

初めて『君のこころは輝いてるかい?』を披露したときの逢田さんの歌を聴いたとき、特段私は感想を抱かなかった。

でも最近はどうだろうか。ライブでも音程やテンポの安定感はあるし、特に2nd Live 神戸公演Guilty Kissで入りにミスがあったとき自然すぎる復帰の仕方には目を見張るものがあった。落ちたところに戻ろうとすると特に最初の一音はリズムがぶれやすく、次の二音目が短くなるか、長くなるか、そもそもリズム自体が前に転ぶか遅れてしまうかになる場合が普通だ。

しかしそこに違和感なく戻るテンポ感は生まれ持った能力と、なによりそれができるようになるまで研鑽する姿を想起した。

『Landing action Yeah!!』のSolo ver.では冒頭のリズムと強拍の難易度が高いメロディを見事に歌っていた。メンバートップクラスの技術である。

音楽は練習してないことができるようになるほど甘くない。最初の印象を踏まえると、現在の水準は驚くべきことである。

8/29のインスタグラム投稿も読み手を惹きつけるものであった。

これほどまでの現在のレベルに「きっとこんなんじゃ終わらない」と言う意識。

我々アマチュアであれば、到達さえ難しく、故に手放しに喜びそうな成長に対して「こんなんじゃ終わらない」という言葉が出てくるのは、やはりその世界で生きていく人たち特有の意識に思える。

 

これも、なんとなくなのだが、逢田さんは2ndでのミスについてとんでもなく悔しく思っているのではないかという気がした。歌もダンスもどんどん成長しているのに、貪欲すぎる言葉を発する意識の持ち主が、あれらのことを是としているようには到底思えないのだ。

それでも、彼女はアイドルだからこそ、ミスに対してステージではそういった気持ちをみせずに笑う。そんな可能性を思う。きっとアイドルにとってそのときベストな選択を彼女はしたように感じている。

 

私でさえ本番のミスは頭にこびりつく。だから次は絶対にそれを越えてやろうと思う。

そのためにひたすら練習を積む。

舞台に立つ者にとってミスは本当に重い。完璧にやり遂げる難しさは嫌というほど分かっていても、許されないと、プロにとってはあり得ないとまで思う。音楽の専門でもダンスの専門でもない彼女たちは、それでもミスを越えるために、自分たちの本当のパフォーマンスのために、今日も戦っているかもしれない。

 

 

・私が見た理想郷

 

2nd Liveで2期のPVが発表された。

千歌ちゃんが「私たちは輝ける。頑張れば絶対って、そう感じたんだ。」そう言っていた。

私はこの言葉をずっと忘れないと思う。

我々は挫折を経て、頑張っても必ずそれが報われるとは限らないと学ぶ。それが真理だ。他の人も頑張っているのだからそれは当然なんだと思う。

千歌ちゃんだってそうだ。1期で頑張ったのに輝けなかった、という経験をした。

それでも、頑張れば絶対に輝けると力強く、そう言った。

青春という限られた時間、彼女たちは頑張れば絶対に何者かになれると知っている。

頑張り続けた先に、輝きがあると知っている。

きっとそこは様々な壁があることを理解しつつも、諦めず果敢に進んでいった先にある、特別な輝きなのだろう。

それはあのとき、私たちが心のどこかで願っていた夢なのかもしれない。

完全に私的なこと、interlude的な何か

最初のブログ記事でも書いたように私はアマチュアのクラシック演奏家である。
基本的には吹奏楽で活動していて、たまに声がかかったらオーケストラにも参加する。


そんな一介の一般人たる私に先日とんでもない話がきた。
プロのオーケストラから、次回のベートーヴェン交響曲第9番の演奏に参加して欲しいとの依頼であった。

ご存知第九は、世間一般に広く知れ渡り、事実それだけの音楽性芸術性、そしてその先のメッセージ性を持っている。
声楽のソリストに合唱を加えた4楽章は規模の大きさもあり、アマチュアではなかなか演奏機会がなく、多くのアマチュア奏者にとっていつかは演奏してみたいと憧れる曲だ。
私の楽器も重要な役目があり、その楽器の奏者であれば通らなければならない道とも言われている。
ただともかく難しい。本物のプロが実質演奏不能だと文句を言うほどである。


そんな事情もあって本当に驚いたし、受けるかどうか迷いも多分にあった。


もう10年以上前のことになるが、高校に入学し、憧れをもって楽器を始めたが、
すぐに自分の能力に絶望してプロへの夢を諦めた。
それでも音楽が好きで好きで仕方なくて、趣味としてしぶとく続けてきた身である。
大学の頃には純粋な驚きで、仲の良い同期に「なんで音楽やってるの?」と聞かれたことさえあるくらいに生まれもってのものがなかった。
そんな自分が果たしてそんな舞台に上がって良いものか、周りのレベルの高さを台無しにしない音楽ができるのか、プロの演奏を聴きに来たお客さんに良い時間を過ごしてもらえるか、
気にするべきことは死ぬほどあった。

でもそのステージたった一つで、今後一生で得ることができないことが手に入る気がした。
結局普段プロじゃなくてもどこまでも行けるところまでやろうと思ってるのだから、頑張るのは変わらない。
音楽に、オーケストラに、お客さんに、要求される水準までいけないだろうけど、
それでも今回だけは自分を優先して、本当に目立つところだけに練習を集中して、そこだけは仮にでもプロになろうと思った。

自分の長年の大きな夢を、叶えるときがきた。

 

 

プロオケは当然だがともかく合わせが少ない。諸々の事情もあって今回も前日リハから私は入ることになった。
周りの音出しを聴いた瞬間に、場違いとはこのことか、と思った。
全国的に名前が知れてる上手いアマチュア奏者と何度か一緒のステージに上がったことはあったが、プロは、ワケが違う。
ステージ越しにしか聴いたことのないような音を出す人に囲まれた事実に気づいたとき、私は初めて音出しにさえ抵抗を感じた。


合奏が始まると更に現実を知った。
他の奏者にとっても前日リハが実質初合わせだったのだが、
指揮への食いつき、アンサンブル力が雲泥の差であった。
普段ともかく合奏を重ねるアマチュア吹奏楽団は、細かく指揮者と棒の振り方にコンセンサスをとって曲を作っていく。
だが、プロオケではそんなことは突然行われない。次々変化していく常にリズムを感じ、曲をスコアのレベルで頭に入れ、指揮のピンポイントな指示に的確に反応していく。
我々アマチュアは楽譜に食いつくな指揮を見ろ、と言われることなら少なからずあるのだが、
今回においては指揮棒を見すぎてるもっと周りを聴けと(そもそもかなり高度にアンサンブルできているのだが)指揮者が注意する場面もあった。

第九は決して簡単な譜面じゃないパートもあり、しかも演奏時間も1時間を越えるため音符数も膨大で、
マチュアからしたら人間完璧でない以上どこまでミスを減らすことができるか、という側面もあるのだが、
リハ本番を通してともかくプロはミスをしない。音が濁ることもなく高速パッセージも正しい音を正しいテンポで正しい表現に則して演奏していく。

やってきている練習が、踏んできた本番が、いや何もかもが別世界だった。

 


当日リハ、一度だけ一拍早く音を入れてしまった。
あの感覚は多分しばらく忘れられない。
周りの肌がざわつくような空気と、指揮者の目。
私は生まれて初めて冷や汗が流れた。本当にこういうとき汗が流れるのか、と変に冷静になった。音が未だやったことない震え方をした。

プロのステージの恐ろしさの一端を見た気がした。アマチュアが頑張ってなんとかするレベルのことは「当然」だし、リハであってもミスは「ありえない」ことだと、
この当たり前がこの世界ではどれほど当たり前か知った。

 


本番のことは、あまりハッキリ覚えていない。
ともかくミスはしない、正しく、この水準で、そんなことをひたすら考えていたと思う。
重要な場面に入った瞬間は完全に、演奏の意識的なコントロールはできなかった。決して悪い意味ではない。全ての意識が半ば勝手に指揮と周りの音と自分自身の演奏に向いていたと思う。
少なくとも、その僅かな最重要部分をミスなく吹くことができた。それだけは覚えている。
でもそれに喜べるような時間も、余裕も、達成感も無かった。
その後も正しく、楽器の役目を果たさなければならない。
周りの刺すような集中力のなか70分の本番をなんとか終えた。

お客さんから拍手をもらうと、やっと、普段なら「ああ、なんとかこの反応をもらえるくらいの演奏はできたんだな」といった安堵感を得られる。
今回は、この拍手は私には向けられていないな、と自分で素直にそう思った。実力差からして当然といえば当然なのだが、本当にここまで音楽に貢献できなかったと思ったことはない。

 

 

 

得られたものは想像を遙かに超えたと思う。
技術面でも特に自分はこの辺にとんでもない差がプロとはある、と知れたし、
場数という意味でももっとオーケストラを経験しなければと思った。
マチュアとプロのステージへの意識レベルの差を身を以て知って、
それに近い意識で普段もっと練習しなければ、これからの前進など夢の夢だと分かった。


コンクールで全国区のバンドに所属して、かなり奏者としての意識は変わったつもりでいたが、
一流の人たちは練習も本番も、当たり前の水準が根本的に違った。
これが今回1番の収穫かもしれない。


プロの圧倒的な実力と意識に触れ、やっぱり当たり前だけど一生逆立ちしたって横に並べるわけがないと、理解した。
でももしかしたらあと数十年頑張れば、差が少しだけ縮まるかもしれない。そんな傲慢さと共にこれからも精進したい。

 


嬉しいこともあった。
同属の楽器の奏者に今回、私だけが音大卒でさえないただのアマチュアのようだ、と伝えたら、えっ良い音色してるのに!と言ってもらえた。
この点については、自分が自信を持っていい部分として大切にしなければならない。

 


たった1度の本番で、視野は広がったかもしれない。やっぱりプロとして舞台に立つのは相当のことだと体感できたのも大きい。
そんな大舞台で、ここぞという瞬間に人はどうなるのか確かにやってみないと分からないなと、良い感情悪い感情ひっくるめてそう思えた。

 

叶うと思っていたかった10年越しの夢は、どうやらその達成と共に、まだまだその先へ進めと強く私を引っ叩いてるようだ。
あくまでステージに立つのは夢の外見でしかなくて、そこで演奏したいものこそ自分の夢の本質かもしれない。
いつか、また、これほどのステージで、心からの音楽をしたい。

Aqours 2nd Live 神戸公演の私的印象

Aqours 2nd Live 神戸公演初日、「緊張感に欠けた」ようなミスが幾つかあったように思える。
そして今までの公演で生じたものとは、タイプが違う印象を受けた。


ライブツアーも残すところは埼玉のみとなった。そんなときだからこそ、今回はあえてステージ上のミスについて思うところを書いてみたい。

 

 

・コントロールできないミス、できるミス

私はステージ上で起こりうるそれについて、まず簡単にこの2つに分けている。
こういうと後者は矛盾しているように感じるかもしれないが、あくまで自身の能力でコントロールし得る範囲で生じたミス、ということだ。
単純にペーパーテストでいうと前者は純粋に問題が解けなかった場合のミス、後者はケアレスミスと考えてもらえたら良いかと思う。

人によっては前者のそれをミスということに疑問はあるかもしれないが、ステージ上ではその人の能力に関係なく最低限要求されるべきもの、即ち決まっている歌の音やダンスのフリがある。
それを達成できなかったとき、お客さんにはステージに上がる人間の能力は関係なく、あくまで失敗として認識されるのを忘れてはいけない。


思い返せばAqoursは、ある種の背伸びを要求された場面が印象に残っている。
メルパルクホールでは活動初期ということで、まだまだ歌もダンスも台本(今回においては楽譜や決まっている振り付け)通りのそれではなかった。しかしラブライブ!という枠では地続きということもあり、決して本人たちにとってもチュートリアルレベルのものではなかったように思える。
それからも曲数を含めて徐々に難易度がステップアップしていくステージ。彼女たちのステージが常に挑戦的だからこそ、我々はAqoursの成長と前進を、とても分かりやすく見ることができた。

そして辿り着いた1st Live、
各々のステージにとって、始まりの集大成だったと思う。そこでも、メンバーの果敢な姿を沢山見ることができた。
特に楽器をやってる人間としては、ピアノは気持ちだけではどうにもならないものだと痛いほど分かってるから、逢田さんの姿には本当に驚いた。


おそらくここまでで生じた失敗は、1st Liveの逢田さんの姿に象徴されるように、
自身の能力と届きたいパフォーマンスのギリギリの鬩ぎ合いで生じたものではないだろうか。
常に良い意味で身の丈以上の挑戦をしてしたからこそ生まれたミス、
つまり本人のキャパシティを超えるコントロール不能なミスだったと私は考えている。

それ故に物語として、今も当時届かなかった瞬間があったことがその克服と共にファンの間で語られてるのだろう。

 

では、今回の2nd Live 神戸公演を考えてみる。

あくまで個人の印象だが特にMCを中心に、今までよりも更にリラックスしているような印象を受けた。
キャスト同士の掛け合いも自由さが出ているというか、その場のアドリブ要素がいつも以上に強いと感じる場面も少なくなかった。

ダンスでも各々のアドリブやアレンジではないかと思える動き(それがどこまで本人の自由意志によるものかは分からないのだが)も増えていた。

そして今回のLiveで僅かに顔を出したミスもその延長線だったのではないかと思う。おそらく本人達にとってもリハではなんでもなかっただろうところでの思わぬ失敗だったのではないだろうか。
本当に他のことに、おそらく台本以外のことに、気を向けてしまったばかりに起こったミス。
1つ1つの行動にもっと集中して意識を割けば、今の彼女達なら防げるレベルのことだった。
らしからぬ姿に少々面喰らったファンもいるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、私はこれらのミスを目にしたとき、彼女たちの変わらぬ「挑戦」を確信した。

 

シンプルな話である。あんなにもストイックでプロ意識に溢れるAqoursが台本以外のところへより目を向け始めたのだ。

今回初披露の曲だって相変わらず歌もダンス難しい。
にも関わらず、Aqoursはそれをシナリオ通り達成するだけでは満足していないと私は感じた。
その場でやるべきと思ったことをやる発想力と行動力と大胆さ。そういったものをステージの節々から感じ取れた。

間違いなく彼女たちはステージの経験を、凄まじい速度で着実に積んできた。そして今、実力と経験を武器にそれまでの緊張から解放され、明らかにコントロールするステージの範囲が広がってきている。
舞台上でより自由に振る舞うには、ステージをより支配しないことには叶わない。
1st Liveから僅か半年前にして、そういったパフォーマンスの段階に入ってきていることに、
やはりAqoursは我々の想定の範疇に収まらないことを改めて強く認識するしかない。


しかし良い意味でまだ成長中でもあるのがAqoursだ。
緊張から今まで以上に自由になって、本番のステージ上で見えるようになった情報は少なくないだろう。その分、それらの情報をどう処理するか、苦戦することもあると思う。まだ全てに意識が届ききらない場面もあると思う。
これから先、彼女たちが完全にステージを掴んだ瞬間、何が起こるのか本当に楽しみだ。
私なんかでは到底想像できない、素敵なライブが待っているのだろう。

 

常に挑戦を前提とされた台本と戦ってきたAqoursがそれを乗り越え、
しかもその先で今までの壁に満足せず、更に我々を楽しませ自分たちも楽しむためのパフォーマンスを披露してきた。
やはりどこまでも圧倒的にプロなのだ。


1人のファンにとして、これほど嬉しいキャストの意識はない。

Aqoursのパフォーマンスにおける「正解と不正解」

 

「パフォーマンスにおける正解とは何か」

 

 

 

 

おそらく文化活動で客観的に自身の表現に向き合うようになれたとき、

多くの人がぶつかる問題の1つの極致ではないかと思う。

 

というのも自身の表現を一歩離れて見つめ直したとき、

こうした方がいいんじゃないか、こうしない方がいいんじゃないか、

というレベルで葛藤するのは特に音楽等に関わる人間にとって不可避なことであるからだ。

 

しかし「正解か不正解か」という観点は文化活動の分野において、

果たしてそもそも存在するのか分からない。

 

 

 

なんにせよ「正解・不正解」というレベルでの判断は、

自身の表現を評価する能力が相当に長けていないとできないし、

そこまではっきりと断ずる強い意志が必要である。

 

 

私個人の吹奏楽やオーケストラでの経験から考えても、

音楽表現に「正解・不正解」という言葉を使うのは事実として、

国内でも指折りの実力を持つ指揮者くらいであった。

 

 

 

 

 

だからこそ私には大変驚き、印象に残っているAqoursキャストのインタビューがある。

 

「ほとんど(の曲)が初披露だったけど、1曲終わるたびに喜んでくれると、『あっ、正解だった』っていう気持ちがあったよね」

 

株式会社ロッキング・オン 月刊カット5月号 73頁

Aqours 1st Liveについて高槻かなこさんのコメントである。

 

 

この感覚のニュアンスはパフォーマンス中において大切な感覚で、

私自身もポップス系の曲を演奏する際によく感じている。

 

というのも、お客さんにどうしたら楽しんでもらえるかいくら考えても、

練習場には録音機器と鏡しかないわけで、そこに自分が求める答えは映らないのだ。

 

 

ステージに立って、お客さんと向き合って始めて自分が磨いてきた表現が間違いではなかったと知ることができる。

いくら厳しい練習を積み重ねても、当日その日を迎えるまで常に自分の努力はこの方向でよいのか常に不安と隣り合わせだ。

 

お客さんが喜ぶツボみたなものはやはり実際にステージを重ねないと分からないものだ。高槻さんはステージ経験自体はまだ浅いこともあり、そのツボの感覚はこれからまだまだ伸びていくものだと思われる。

1stではインタビューの答えにある通り、本番中1曲1曲確かめていくような感覚だったのだろう。

 

 

 

 

そんな不確かさに囲まれたなかで、彼女は何故自分達のパフォーマンスに「正解」という言葉を使えたのだろうか。

 

 

その理由の一端が以下のインタビューから感じられた。

 

会場に圧倒されないように、歌やダンスのパフォーマンスに関しては、かなり自信が持てるぐらいまで練習を重ねました。

 

株式会社学研プラス 月刊声優アニメディア5月号 35頁

 

初めての大舞台に挑むにあたり、かなり自信が持てるほどの積み重ね、

これが「正解」という言葉が出てくる1つの根拠に思える。

 

 

 

例えば、ある目標達成に及ばなかったアプローチを考えたとき、

果たして自分に足りなかったのは努力の量か、方向性か、簡単には分からない。

そして努力の量については、結局やったかやってないか、あるいはどこまでやったか、というレベルの話なので「正解」という言葉が使われるようには思えない。

 

 

少なくとも向上心が強く練習に熱心な音楽家で、努力の量に正解不正解という言葉を使う人を私は見たことがない。

 

 

 

 

インタビューで分かる通り、彼女は1st Liveにおいて努力の量が心配になる世界にはもういなかった。

「歌やダンスのパフォーマンスに関しては、かなり自信が持てた」という表現から、

自身の決めた方向性において、十分な表現ができると思えるくらい純粋な技術面においては不安がなかったのだろう。

 

 

 

問題が表現の方向性に集中していたからこそ「正解・不正解」のレベルで自分のパフォーマンスを考えられる段階にいたのではないだろうか。

 

 

 

 

では高槻かなこさんが目指した方向性とは何か。

これは「国木田花丸としてステージに立ち、お客さんを楽しませる」ということではないかと私は考えている。

 

以下のご本人のコメントを根拠として紹介したい。

 

(ミュージカル場面でまばたきといった細部までアニメに合わせたいという発言について、何故そこまでこだわりたかったのかという質問に対して)

あの場所(1st Live)に“国木田花丸”として立ちたかったからです。(中略)「花丸ちゃん」として観てもらえるか不安もすごくあったんです。

 

株式会社山栄プロセス リスアニ!Vol.29 24頁

 

私が私としてステージに立つのではなく、ステージに立つ花丸ちゃんがどうしたら可愛くなるかの研究。
その時は一生懸命すぎて自然にやってたけど、今思えばそう。
あの二日間、確かに私はマルちゃんでした。
誰に何と言われても!

 

本人Instagram(kanako.tktk 3/9投稿より

 

その他にもいくつかの場面で国木田花丸とのギャップに悩んでいたこと、

そして国木田花丸としてライブのステージに立ちたかったことを言及されていた。

 

 

花丸ちゃんとしてステージに挑むために高槻さんは本当にそのときできるあらゆることをやってきたのではないかと思う。

それでも、それが正しかったのか幕が上がるまで決して分からないのだ。

そして本番お客さんの反応をみて「自身が国木田花丸としてライブに立てている」と確信したのかもしれない。

 

高槻さんが「正解」だったとはっきり言えたのは、

中途半端に方向性をぼやけさせず、自身が目指すもののためにはっきりと彼女がポジションをとったからこそではないかと私は思う。

 

 

音楽において中途半端な表現は誰にも刺さらないし、それは自分の答えを出しているとは到底言えない。

これが自分のパフォーマンスだ、答えだ、とはっきり言うには人間それだけの根拠をもって自身の立場を明らかにしなければならない。少しでも誤魔化そうと思ったり、詰めを甘くしてはいけないのだ。

 

 

 

 

「正解」という表現に至るまで、私などでは想像できない様々なことがあったと思う。

そしてその先へと越えていったのだろう。そんな考えをかき立てられる言葉であった。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、ここに1つ大きな問題があるように思える。

 

 

 

それは、我々オーディエンスが完璧な聴衆ではないということだ。

 

 

キャストの方々が「お客さんを楽しませる」という目標を掲げたときに、

その結果の成否は全て我々の反応によって決まる。

このときは特に何も問題は起きない。

 

 

 

一方、「キャラクターとして」という目標が掲げられたとき、

その成否はどう判断されるべきなのだろうか。

 

 

私には、例えばより多くの人が「キャラクターらしい」と判断するパフォーマンスが「正解」とは到底思えないのだ。

世の中に音楽のための音楽が間違いなく存在するように、

演技のための演技もまた存在するのではないだろうか。

 

 

もし存在するとしたら、それは果たして一般大衆に伝わるものなのだろうか。

 

 

 

オーケストラという場において、はっきり言うと分かる人だけ分かればいいという暗黙の了解も少なからずある場合が存在する。

同じオーケストラの同じ指揮者による同じ日の同じ曲の録音でも音楽が違うときがあるのだが、

おそらく普段からクラシックに慣れ親しんでいないとほとんど伝わらないだろう。

 

だがそれで問題ない。

気づける人だけが、その音楽の違いに気づくことができればそれで間違いなく十分なのだ。わざと過度にその違いを強調するほうがよっぽどナンセンスである。

 

 

 

分かりやすくより多くの聴衆を興奮させることと、僅かなとこでより音楽的に表現することを比べたとき、

基本的には後者が圧倒的に重要なのである。

 

何故なら音楽的であることがクラシックの求める世界だからである。

 

だが、より音楽的だという判断はどう成されるべきなのか…...

 

 

 

 

Aqoursのライブで「よりキャラクターらしいパフォーマンス」と「より多くのお客さんが喜ぶパフォーマンス」と2つのパラメーターをとったとき、

超越的視点でみたときその2つが最も高いレベルで調和している状態と、

より多くの人がそう感じる状態は果たして一致するのだろうか。

 

一般に多く伝わる表現と演技のための演技、どちらを重視するのが正しいあり方なのか。

後者が重要だとしたら我々はそれに気づけるようにあるべきなのだろうか。

 

 

 

キャストがキャラクターの1番の理解者としたとき、

我々はどこまでその視点を共有できるのであろうか。

 

 

 

 

 

Aqoursの出す「真の正解」が「事実として正解」になるよう、

キャストの方々に置いていかれないようAqours18人を少しでも理解できたらいいなと、そんなことを考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今」こそ『かなことさらら』

何故「今」こそ『かなことさらら』なのか

 
 
 
それは忘れもしない2017年5月16日21時の出来事である。
ニコ生公式特番『かなことさらら』初放送。
 
 
 
奇しくもその日は…松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅に出てからちょうど328年後
 
 
我々は『かなことさらら』のある世界へ、突如飛び込むことになった。
それは幸福を約束された大いなる人生の幕開けである。
 
 
 
 
 
声優も 住み替はるぞ かなことさらら
※字余り
 
「なんだかんだ人気声優が固定化してるこの界隈も、新しい声優が定着していく時がきた。それは高槻かなこさんと八島さららさんである」
 
 
 
 
 
さて、そうは言ってもラブライブファンとアイドル事変ファンを中心とした一部のオタクしかまだ視聴していないのも事実。
そこで今回は世界に存在する『かなことさらら』の、ポテンシャル視聴者85億人(2030年地球総人口予測)に向けて、この番組の魅力を紹介していきたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
題して
 
『かなことさらら』のココがヤバい
 
 
ここからは文体を変えてお送りします(深い意味はない
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヤバいところ①:高槻かなこ八島さららがヤバい
 
 
おそらくここにお越しの人は、
高槻かなこさんといえばAqoursの花丸ちゃん
八島さららさんといえばアフィリアサーガやアイドル事変の夏月ちゃん
としてこのお2人を認識しているでしょう。
 
その考えは間違いではありません。
しかし、それだけではお2人の出演歴を知っているに過ぎないのです。
 
では、まずこちらの写真をご覧ください(本人Twitterより)
 
 
 
お分かりいただけましたでしょうか?
なんと2人揃って21世紀レベルの美人なのです。
 
先日発売された某雑誌の美人声優特集に高槻かなこさんが載ってなかったことに私も大変驚き、
職場の階段から池田屋の階段ばりに落ちてしまいました。
もちろん八島さんが掲載されたことについて深い納得があったことはここで付け加えておきます。
 
ともかく「かなことさらら」はクレオパトラも裸足で逃げ出す2人組による番組なのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
当然ですが、外見だけが特別なのではありません。
2人の内面についても私なぞが語るのもおこがましいのですが、少しだけ触れさせていただきます。
 
 
 
 
 
 
まず、高槻かなこさんについてですが、端的に言うとセンスが独特。
 
 
 
 
早速こちらをご覧いただきたい。
 
 

 

オチが哲学的
 
どこまでいっても新しく買った黒のフレアスカートは2WAYなのに、あえて3WAYと言い切る胆力。オチがちゃんと落ちてるか分からないのになぜかじわじわと込み上げる笑い。
 
そもそもこれはネタツイートなのでしょうか。それさえ我々に考えさせてしまう…そんなギャグのセンスも高槻さんの魅力といえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
独特なセンスはこれだけじゃありません。
 
次にこちらをご覧ください。
 

 

 
お気づきでしょうか?文末についた2つの木の絵文字に…。
木が2つでハヤシを表現しているのかもしれません。
これもまたギャグなのか、それともただ絵文字で表そうとした結果なのか分からないところがポイントですね。
 
 
更にこち
 

 
まさかの連作。
どうやら完全にオムハヤシライスを絵文字で表現しにかかっているようでした。
 
アイドルは確かに手料理アピール!みたいな写真をアップするときがあるものの、
2日連続作り置きした同じ料理をアップする意図が全く分かりません。
でも何故かじわじわくる。このセンス、天才的ですね。
 
高槻さんは既視感という言葉が好きなのであろうか…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彼女のセンスが光るのはギャグだけに留まりません。会話もまた独特です。
 
Twitter上でご友人方にリプをとばしていらっしゃることがあるので、是非皆さまにはその目で確かめてください。クソリプとかそういう次元以前の何かがそこに存在しています。
 
あえて今回はこのツイートを紹介しておきます。
 
 
 
 

 

何故友人の「愛しています」に公然猥褻罪で逮捕された国民的アイドルの名前をぶつけているのか全く分からない。
 
 
 
 
 
 
 
 
また、こちらのツイートも掲載しておきたいです。
 
f:id:llscfg:20170624135957p:plain
 
あなたは親友の小森さんをどうするつもりなのか。
 
よりによって初期の王様のセリフをチョイス。
 
高槻さんはサイコロを割って7の目でも出すつもりなのでしょうか?
 
これらのツイートが心に琴線に触れた人に朗報があります。
なんとこのキレのある発言はリアルでも変わらないのです。
むしろ声での表現もつくので更にキレが増すといえるでしょう。流石声優さん。
これはもう是非ご自身の目と耳で確認するしかありません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて八島さららさんの話に移りますが、
その前に先日新しくなった宣材を見てください。
 
 

 
 
八島さんのこの首から肩にかけての曲線、美しすぎではないでしょうか。
私はこれをラインの黄金/Das Rheingoldと呼びたいと思います。
※八島さんはドイツ文学科卒
 
このラインの黄金は私服においてかなり確認しやすくなっているので、
是非こちらも忘れず注目していただきたいです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて八島さららさんといえば「食」である。
※個人の見解です
 
 
 
プレミアムと聞けば「プレ牛*1
と即答するなど声優界の牛丼フリークとして名を馳せているのが彼女である。
 
松屋フーズさん、コラボ企画お待ちしております。
 
 
 
 
 
またまたそういう営業でしょ?とか思った方、反省してほしい。
 
 じゃあ質問です。誕生日に牛丼にキムチトッピングして喜んでいる声優がいますか?

 

八島さんだけです。

※当社調べ

 

 

 

 

 

このツイートからは恒常的にプレ牛納豆トッピングを食べていることが窺えます。

 

 

 

 

あと突然八島牛丼ミシュランを始めます。

 

 何が安定化は分からないのですが、確かに安定だなと納得してしまう説得力が彼女の

牛丼ツイートにはありますね。

 

 

「牛丼や 腹にしみ入る プレミアム」

※雑

 

 

 

 

 

 

 

また、昨今女性には健康志向のラーメンが流行っているという噂があります。

でも八島さららさんは違います。

 

 

一介のOLなんぞはソロラーメンですら躊躇するのに、

この美人声優は背油系ラーメンに足繁く通っている様子。

はう~からの文体が内容とミスマッチ過ぎて震えます。

 

 

 

 

 クリスマス。世のアイドルオタクは気が気じゃない日ですね。

 誰も信じられない…誰を推したらいいのか分からない…
そんなあなたに八島さららさん。
 

 

頼むからもっと良い鶏肉を食べてくれ……

ちなみにこの後はモンハンのオンラインプレイ相手を見つけられない姿が

観測されております。

 

 

 

 

 

極めつけはこれです。

 若干汚い。

もう最高ですね。隠れた狙いとかそんなものはなく、

ひたすら赤裸々にご自身の食の情報を公開しているだけです。

 
 
 
 
紙面の都合で本当に僅かな情報しかご紹介できませんでしたが、
お2人のポテンシャルは十分に通じたと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヤバいところ②:スタッフさんがヤバい
 
 
私は決してニコ生をよく観るというわけではないのですが、
「かなことさらら」のスタッフさんは仕事が早いかつ、クオリティが高いです。
 
最初に掲載した写真からも少し確認できますが、まずセットがオシャレかつかわいいのです。
それだけじゃありません。第2回放送ではクオリティの高いテロップをリアルタイムで表示し、
地上波テレビ番組顔負けの仕事でした。
 
数分前に完成した絵を次のアイキャッチで使ったときは、
半端ないなと戦慄した視聴者も多かったはずです。
 
 
また地味な作業にも余念がなく、第1回放送で某ボードゲームを手作りでアレンジして使用していましたが、
おそらく見た目以上に大変な作業だったことが予想されます。
こだわりを感じますね。
 
 
 
そしてこちらの公式チャンネルのトップ画像をご覧ください。
 

ch.nicovideo.jp

 

私はこのデザインがめっちゃ好きです。

番組のかわいくてポップかつわずかに狂気を孕まないでもない雰囲気が

よく表れています。

 

ちなみに右上の服は初回放送時のお2人の私服ですね。愛を感じます。

 
 
 
やはり名番組の裏には名スタッフありということですね。
※ただし番組名は誤植する
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヤバいところ③:2人の仲の良さがガチ
 
 
そう、予想の20倍くらい仲が良いのです。
 
 
つい皆さんも学校や職場で人間関係を気にしてしまうこと、ありませんか?
 
生きていくうえでは大切なことですが、
つい親しい人にも変に気を遣ってしまったり、友達と遊んでいても気疲れしてしまう場面があるかと思います。
 
 
しかも、気にすればいいのは、自分のことばかりではありません。
あの人とあの人は仲良さげだけど実は仲悪いとか、この人たちは一緒にしちゃダメだとか、たくさんの地雷が人間社会には埋まっています。
 
他人と他人の関係にまで気を遣わないと、周りから空気読めない人間というレッテルまで貼られてしまうことだってあります。
 
 
他人の出す雰囲気を敏感に感じとらないといけないことに、気が気でない人も少なくないでしょう。
 
 
 
 
でも、かなことさららは違います
 
 
 
ノリがマブダチと居酒屋で変に盛り上がったときのそれです。
2人の距離感と会話の内容がそれを物語っています。
 
色んな番組とか観てると、
いまこの人の発言で他の人はどう思ったのか…だとか、あっこの人いまこの人に気を遣ってるんじゃないかな…、
みたいな心配がふと出てきてしまうときがあると思います。
 
 
しかし「かなことさらら」ではそんな現代の呪縛から解放され、心から2人の絡みを楽しむことができるのです。
 
 
高槻さんの独特な会話のテンポやギャグはその他の番組でも健在ですが、
やはり八島さんと一緒だとアクセルの踏み方が違います
 
そして八島さんも高槻さんのテンポをよく分かっているし、ギャグの拾い方が絶妙なのです。
 
 
 
また八島さんもリアクションというか動きがなかなか特徴的でそれもが魅力なのですが、
なかなかそれを活かして上手く乗っかれる人がいない印象がありました。
 
でも「かなことさらら」では違います。
 
高槻さんも八島さんの動きを分かっているのか、テンションに不自然さなく番組が進んでいきます。
心なしか八島さんの動きもいつも以上に楽しそうです。
 
 
 
本当に仲が良いからこそ飛び出る自由奔放さと、絶妙な掛け合いを、
我々は余計なことを気にせず楽しめるのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ヤバいところ④:隠し事をしない番組
 
初回放送冒頭からその片鱗はありました。
いきなり高槻さんが、酔うと八島さんの1人称が「ちゃぴ」になると暴露した瞬間、
我々は「この番組…一味違うぞ…!」と唾をゴクリと飲み込みました。
 
その後も1回放送2回放送と変わらず、
声優、若手、アイドルという属性を持つ2人があらゆるコンプライアンスを裸足で踏み抜いていきました
 
 
Aqoursメンバーの某職人が自身の番組で、声優としてもう少し上手くやっていきたいというガチな悩みをこぼしていたにもかかわらず、
この2人は業界について「陰キャラが多い」とぶっちゃける始末です(本当に言って良かったのか……?)。
 
 
 
1回放送では手料理を腐ったまま放置してる事実を喋ったり、
高槻さんがまさかの漫☆画太郎ネタを披露。
2回放送では八島さんが「コーナーで差をつけろ」とオタク構文をぶち込んできました。
 
 
しまいには「重大発表:結婚」ネタを平然と使い、この人たちは本当にアイドルとして活動しているのか???と
視聴者を混沌の底に叩き落とします。
 
このネタの流れから番組のレギュラーラジオ化を発表するもんだから、何人かのオタクは処理落ち待ったなしでした。
 
 
 
全体的に自由すぎてまだまだ語りつくせないのですが、本当にギリギリすぎて何度見ても笑える番組となっています。
 
 
 
また隠し事はしないというコンセプトより、
月額540円のチャンネル会員料にて番組の運営費が賄われるという発表もありました。
 
なんと入会すると、
・今後の放送をほぼノーカット動画付きで観れる(ラジオは30分に編集されたもので映像もない)
・過去の放送だって視聴できる
・かなことさららのチャンネル会員になれる
という月額数万でもお釣りがくるような特典がついてきます。
 
 
これは入会するしかありませんね。
1アカウントにつき1回しか入会できず歯がゆい思いをする方もいらっしゃると思いますが、
今は耐え忍びましょう。火影になるには大切なことです。
 
 
まだ入会していないという、地球の公転が逆になったみたいなミスをしてしまった方は以下からどうぞ。
 

かなことさらら(かなことさらら) - ニコニコチャンネル:アニメ

 

 

 

入会すると第2回後に放送された30分ちょっとの映像を見ることができます。

DIVA高槻の誕生や、バンジーをやらされたり「ちゃぴ」を晒されても大丈夫だった八島さんがガチ放心するマジでヤバい放送です。

 

1か月は笑えます。笑い慣れてないせいでアゴ外れたという声も私の脳内でありました。

 

 

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さて、簡単ではありますが、「かなことさらら」の魅力を紹介してきました当記事も終わりが近づいてきました。

 

いかに現代社会で心が錆ついてしまった我々にとって、救いとなる番組か、少しでも伝わったのであれば幸いです。

 

あまりに番組が情報過多過ぎて(三重表現)、私の文章力抜きにしてもなかなか文字では伝わらない部分も多いのではないかと思います。

僅かでも興味をお持ちいただけたのであれば、是非番組バックナンバーをご覧ください。

 

魂が救済される音がします。

 

 

 

 

 

限界オタクの かなことさららに 行梅雨ぞ

 

「限界オタクの心が かなことさららに向かうときがきた。それは梅雨が去り眩しい陽光が射すかのようだ」

 
 
 
 
 
 

*1:松屋のプレミアム牛丼のこと。美味。

Aqoursのユメ

つい先日、ラブライブ!サンシャイン!!の一挙再放送があった。
Blu-rayがあってもスケジュールを立てるのに相応の気合がいるせいか、なかなか1話から全部連続して見直すということはなかったので、
こうして改めて連続視聴することで新たな気づきもあり、大変楽しめた。
そして観る度にいつも思う。なぜ彼女たちはいつもあんなにも眩しいのだろうか…。

 

Aqoursの「夢」のリアル」

Aqoursのやりたかったことってなんだったんだろう?」
たまにネット上で見かける疑問の1つだ。
確かに全体を通して「輝きたい」というテーマは分かるけれど、
内浦への想い、μ’sラブライブとの関係等で実際問題として
彼女たちの哲学がぼやけてしまうのかもしれない。
ただ、そんな分かりにくさが私にとってラブライブ!サンシャイン!!を
一段と魅力的なものにしたのだと思う。

考えてみれば人の夢は動機と必ずしも1対1の関係では結ばれず、
また目指すものやアプローチが常に同じなんてことは
きっとないだろう。
別にこれは、人は誰しもブレる、という話ではない。
私は、人の願いについて本質こそ簡単に変わらないものであり、
目的地の姿や通ろうとする道筋が変わることは、
決して迷走ではなく、成長の証だと考えている。
自分が本当に至りたい場所を見つけるのに必死になれるのは
青春時代ならではの無謀さではないだろうか。

意図してかどうかは分からないが、そんなリアルさがこの作品にはあった。
他人の夢の全貌がすぐ分かるほど人間は単純じゃないし、
高校生の夢の外見はなかなか一定じゃない。
だからこそ感覚的に我々は1人の女子高生として
彼女たちを受容し、
そして熱いナニカを受けとったのではないだろうか。
13話を通して千歌、そしてAqoursのひたむきな青春は、
ノスタルジーとはまた違う、記憶と感情の奥にある情熱を
引き起こすような力が確かにあった。

しかし、やはり彼女たちのファンとして、
より明確にその想いを受け取りたいという気持ちからか、
あるいはより彼女たちを理解したいという気持ちからか、
はたまたその両方か…
ともかく私は彼女たちの夢の本質と心を考えてみたくなった。

現時点でもうそこそこの長さになっているが、
この先はもっと長くなる。
それでも私なりに答えを出してみようと書いてみたので、
是非読んでみてもらえたらうれしい。


「千歌の夢、Aqoursの夢」

アニメ本編において千歌がリーダーとしてAqoursを引っ張っていったことは
おそらく皆さんもご承知の通りだろう。
特に、Aqoursの在り方、哲学において彼女が果たしている役割はとても大きい。
スクールアイドルへの愛、本当の自分の居場所…
様々な理由で参加しているメンバーが1つのユニットで頑張れるのは、
それらを包括するような千歌の大きな憧れがあってこそだったと思う。
Aqoursのスクールアイドルとしての在り方≒千歌が目指すもの
だと私は考えている。

彼女は「普通」だと自身を評価していた。
だが今我々は彼女のことを安易に「普通」とは思わないだろう。
最初こそ「普通」だったのかもしれない彼女のリーダーとしての心積もりは、
トーリーを通して色んな人や出来事を通して、
我々の目をみはるような成長を遂げる。

千歌の夢、Aqoursの夢について、ストーリーを追いながら考えていこう。


「夢の軌跡」

まずAqoursの物語は千歌が初めてμ'sのパフォーマンスを観て、それに憧れるところから始まる。
何かに全力になりたいと燻っていた彼女は、スクールアイドルという全力でエネルギーをぶつけられる場所を知った。
そんなスクールアイドルという場で自身の心を惹きつけて止まないμ'sのキラキラした姿から
「私も輝きたい!」という願いを抱く。
これがこの後もストーリーで描かれていく彼女の願いであり、
言ってしまえば、輝きを感じる対象がスクールアイドルであることは
本来的には必然ではない(後述するが千歌にとっては必然だったのかもしれない)。
「輝きたい」は包括的な概念、哲学であり、それ故に私はこれこそが千歌の「夢の本質」であるとみている。

さて、ここでもう一点、μ'sとの関係も整理しておこう。
彼女の願いはあくまで「輝きたい!」ということであり、そのきっかけがμ'sだったために、「(μ'sのように)輝きたい!」という旨の発言になっているということだ。
つまり、当たり前だが彼女は決してμ'sになりたいわけではない。
たまにμ'sそのものになることを望んでいるのではないかという
解釈をする方もいるようだが、彼女の願いの本質を踏まえると、
それは誤りだろう。
ただμ'sのように輝きたい、という発想から、輝くにはμ'sのようにすればよいという考えに至っているのだ。
夢で夜空を照らしたいの歌詞にもあるように、形から入っているだけに過ぎない。

ともあれ目指すものを見つけた彼女は、
仲間とともに少しずつユニットを確かな形に作っていく。

そんな千歌の夢の大きなターニングポイントが6話である。
この話の冒頭で浦女が廃校の危機に瀕していることが明らかになり、千歌がそれを喜ぶところからスタートする。
それは勿論、本人も言っているように状況がμ'sと重なるからで、
1話から、千歌はあくまで輝きたいだけ、そして輝くにはμ'sと同じ道を歩めば良いと思っている、
という文脈で考えると、
彼女にとっては輝くために不可欠な材料が手に入ったくらいのニュアンスなのだろう。
μ'sと同じものを目指したい(そうすれば結果的に輝ける)と言っている彼女にとって、
同じ目標、廃校阻止を追えるようになったのは僥倖なのである。
μ'sは元々廃校阻止が目標のため、千歌が輝く手段として廃校阻止を目標に掲げるのは確かに矛盾したことなのだが、
結果だけ見るとμ'sがその輝きをもって廃校阻止を達成したといえるため、
千歌の中では矛盾はないのだろう。

そして千歌は廃校阻止のために活動を始めるわけだが、
そのためにアピールポイントを探すうちに学校がある日常の喜びや町の良いところを知り、結果的に自身の学校、そして内浦という町が自分にとって大切なものなのだと逆に知る。
6話のラストで、助けて、ここには何もない、と思っていたという千歌のモノローグがあるが、
元々μ'sと同じやり方で輝こうとしていた彼女にとって、都会と大きな差がある内浦という土地は足枷でしかなかったのだろう。
しかし、内浦の良さや大切さに気づいた彼女は「内浦のスクールアイドルとして輝く」ことを決めたのではないだろうか。

追いかけてみせる、という言葉はスクールアイドルとして輝く夢のことだと私は解釈しており、
「この場所から始めよう できるんだ」という台詞は、内浦だから輝けない、なんてことはなくて、
内浦だからこそ私は輝けるという彼女の確信の言葉に思える。
6話は、スクールアイドルとして輝くにあたって、内浦や浦女がAqoursの重要なアイデンティティーとなるというストーリー展開だ。
それを踏まえると、内浦の良いところを知ってもらい、そして廃校を阻止することが彼女の新たな目標として追加されるのは想像に難くない。
あくまで「(私たちの夢)輝きたい」、「(みんなの夢)浦女を残したい、内浦の良さを知ってもらいたい」というのは千歌にとって夢の両輪なのではないだろうか。

続いて8話では、0から1へ、というキーワードが出てくる。
東京でのイベントの結果に対し最後に「悔しい」という本音を打ち明ける千歌だが、
これもスクールアイドルとして「輝きたい」という願いに何ら矛盾するものではない。
私は千歌の海での発言について、
自分はスクールアイドルをまだ続ける
→だってまだ0
→スクールアイドルとして輝きたい
→なのに0だった
→悔しい
という流れから、頑張ったのにスクールアイドルとして輝けなかったことが千歌は悔しかった、と理解している。
アイドルとして誰かに勝つとかそういう想いではない。
芸術分野においてしばしば人が抱く感情だが、
人の心を惹きつけたくて、何かを訴えたくて、
表現活動をしたときに、
誰にも伝わらなかったときの悔しさは筆舌に尽くし難い。
好きなことで良いものをお客さんに届けたい、
という気持ちは自身の絶対値であり、
ただ同じフィールドに立つ人が他にもいる以上、
相対的に優れたパフォーマンスをしなければならない。

ちなみに私個人としてはそのことについて、
お客さんという立場からしても、享受できる表現の絶対値、
あるいはそれから得られる幸福の絶対値が高くなるため、
歓迎するべきだと思っている。


さて11話では、千歌の夢については特段変化は見られないが、彼女の輝くことへの想いが再確認されている。
ここにきて1話や2話をなぞるのはとても上手い構成ではないだろうか。

曜と梨子に、千歌にとってのスクールアイドル、そして輝くことについて
「千歌にとって輝くとは誰かと一緒になって、1人ではできない大きな輝きを作ること。そしてそれが彼女たちの歌を聴いた人にも広がっていく。それがスクールアイドルの輝きであり、千歌のやりたかったこと」
という発言がある。
これは1話で千歌が言ったμ'sのパフォーマンスについて、誰かと一緒に一生懸命になると、こんなに感動させることができる、スクールアイドルはそれができる、という言葉と一致している。
ここからも是非変わらぬ彼女の夢の本質を読み取りたい。


そしてストーリー上かなり重要な意味を持つ12話となる。
この回の冒頭で、既に同時期にμ'sが廃校阻止していたことについて、千歌は自分たちとの差を感じている。
この発言の意図としては、廃校阻止できるほどの輝きを自分たちはまだもっていない、ということだと解釈するのが適当だろうか。
6話での発言等を考えると、
廃校阻止ができないのは自分たちの輝きがまだ及んでいないためだと千歌は考えると予想される。
それ故、どうしたらμ'sのように強い輝きを放てるのか答えを求めて、音ノ木坂へ向かうのである。
そして、そこでμ'sが学校に形あるものは何も残さなかったと知る。
おそらく千歌や梨子はそこから「何も残さなかったμ's=μ'sにとって勝ち取った成果は重要ではない=1番になりたい、勝ちたいということはなかった」という答えに行き着いたのではないだろうか。
そして千歌は、何にも囚われず仲間だけを見て自分たちの景色を探して走る、それがスクールアイドルとして輝くために本当に必要なことだと気づくのである。

 

Aqoursラブライブ!

では自分たちだけの道を全力で走り輝くことを決めたAqours
ラブライブに出場する意味や理由はあるのだろうか?
まず答えとしては、ある、というのが私の見解である。

最初に確認しておきたいこととして、
以前にTwitterでも言及したが、
ラブライブの勝敗は人気投票的に決まることである。つまり技術云々は置いておいて、単純により多くの人を惹きつけた(=より輝くことができた)アイドルが勝者となる。
その前提で考えると、
千歌はμ'sのように(=誰よりも)輝くことを目標としているのだから、どれだけ人を惹きつけられたか、そして自分たちの輝きはどこまでのものなのか…それはラブライブに出場して初めて知ることができるのである。

ではどうすればより輝けるのか。

ダイヤが作中でアイドルのパフォーマンスのレベルアップについて言及しているので、まず技術について触れる。
世の中、文化活動において技術と気持ちは相対要素的に扱われることも少なくないが、そんなことは決してない。
ハッキリ言って、技術レベルの高いパフォーマンスはそれだけでも心に訴えるものがあるし、
技術レベルの低いパフォーマンスは当人達がお客さんを楽しませようと思っていてもそもそもそれが伝わらない。
パフォーマンスを何らかの意思の伝達手段と考えると、稚拙なツールでは伝わるものも伝わらないということだ。
ラブライブの規模と歴史の拡大につれ、強い想いをもった人たちがより多く集まるのは当然なのだから、
よって輝くためには優れた伝達手段(=レベルの高いパフォーマンス)は必須といえる。
また、千歌の1話での発言にもある通り、輝くためには一生懸命練習しなければならない。必死に練習した先にある技術には確かに相応の気持ちが宿ることは確かである。

ただ技術はあくまでツールである。
根本的には輝く=楽しむこと、と千歌は言っているが、事実我々がアイドルに求めることは何だろうか。
きっと、楽しくて、幸せな気持ちにさせてくれることだろう。
つまり、その高いレベルのパフォーマンスをもって何を伝えたいか…ということが輝くこと、
そして結果としてラブライブで優れた成績を残すことにとって重要である。

少し話がズレるが私のような人間がSaint Snowに抱く疑問点はそこにあって、
彼女たちは「勝つこと」を前面に押し出しているため、(彼女たちの本心は分からないが)
どこまでいっても彼女たちのハイレベルなパフォーマンスからは「勝利への欲求」が強く伝わってくるだけになってしまうのである。
果たしてそれは世の中がアイドルに求めるものなのか…
彼女たちは勝利を求める故に勝利から遠ざかるのではないかと考えてしまう。
技術なき想いは無力だが、想いなき技術は空虚である。

ラブライブに参加する意義について話を戻して、
千歌のもう1つの目標「地元を知ってもらう」という点からアプローチを考えてみると、
内浦、そして浦女を知ってもらうためにも、ラブライブは非常に適しているといえる。
現実的な話になるので、どこまで作品に対して適切か分からないが、ラブライブという大会はある程度の注目度が期待され、
そこでは言ってしまえばスクールアイドルの見本市というような状況になることが予想される。
無名のアイドルを素人が発見するのはなかなか困難だが、
ラブライブという大会を通せば、どんなグループも平等にステージを得ることができるので、
多くの人が比較的簡単に見つけられるということだ。
そしてある程度その魅力に見合った順位が与えられてく。
様々なランキングが世の中には存在するが、選択肢と情報が膨大になった現代においては、
我々が決定行為を行う際に切っては切れないシステムである。

以上の理由で、彼女たちが0から1への挑戦を出来る場所、
そして夢を叶える場所はやはりラブライブしかないのだと思う。


最後に、
13話ラストの千歌の言葉を振り返りたい。
μ'sに千歌が感じた光は、仲間だけをみて突き進んで、それだけでしか見えない景色があると感じさせてくれる光ではないだろうか。
世の中様々なアイドルユニットが、いや、それに留まらず様々な表現者たちがいる。
作り手も受け手も異なるバックグラウンドを持っているし、
作り手が受け手に、受け手が作り手になるシーンが世のなかには溢れている。
そんな中で、誰のパフォーマンスがどんな人たちに刺さるのかは常に未知数である。
人を楽しく、そして幸せにしてくれる表現に答えはない。
でも誰かにしかない表現は、誰かにとってかけがえのない心になる。
この先もAqours9人だけの輝きで、私たちのことも輝かせて欲しい。
我々も一緒に輝けるようこれからも精一杯応援していく。