パラボラアンテナ

Aqous中心のブログっぽいなにか

世界を変えるということ

ラブライブ!サンシャイン!!2期6話『Aqours WAVE』の再放送があった。
個人的にだが、6話から7話の展開はサンシャイン!!で描かれたことのうち、「世界を変える」という点において象徴的に思える。
彼女たちが変えられたのものはなにか、掴めたものはなにか、或いはそうでなかったものは何だったか。その他このことについてフィクションで語られたうちに潜む真実は何か、など、2期を中心につらつらと垂れ流していきたい。

 

 

 


因果なき奇跡は起こらない

 

Aqoursの物語において意外とシビアだったのが努力や経験と、その結果の関係だったのではないかと思う。
例えば1期では結成して間もなくスタート地点に気づいたばかりのグループでは、パフォーマンスもスクールアイドルへの哲学も足りず東京でのイベントで良い結果を残すのは当然ながら難しい。全員揃ったばかりのグループでは簡単には決勝大会には出られない。
2期では因果関係自体もシビアだった。彼女たちがスクールアイドルとして頑張ったって経営が苦しければ学校は閉校を決める。
内浦という場所にある学校に対して中学生は志望校をそう簡単には変えない。
あるいはそう、いくら努力しても精神状態次第で、いやそれもまた関係なく、ミスが起こるときは起こる。パフォーマンスを完璧にこなすことのなんと難しいことか。
決して不条理ではない。しかし神様は簡単には微笑まない。

彼女たちに立ちはだかる壁とは我々が現実に直面する壁と変わらなかった。
特別な力を持たない普通の人たちは、何か大きなことを成そうとしたとき、現実という壁にことごとく阻まれる。
例えばそれは子供の頃にみた大人の事情かもしれない、大人になって知った社会というものかもしれない、あるいは才能かもしれない。

人間は頑張れる、でも、頑張った先で必ずその壁を超えられるとは限らない。

 

 

 

 

夢は消えない


初出場のラブライブで優勝して統廃合を阻止し、そして自分たちだけの輝きを見つける……
これが彼女たちにとって最初の夢だった。
2期早々に破れることになった夢なのだが、私は夢の最初のカタチが叶わなかっただけでこの夢が叶わなかったとは思わない。
おそらくそう考える人がほとんどだろう。
結果としてAqoursは大会に優勝したし、学校も大会の歴史に名を刻むことで永遠となった。千歌たちも輝きを見つけた。
どんな壁が立ちはだかっても足掻き続けて夢の灯火を消さず、ときに誰かに助けられて、そして遂に辿り着いた。
でも決してそれは超人的だったわけではない。どうしようもない壁を自分たちのやり方で壊したわけではない。
あくまで夢を消さなかっただけである。

 

 

 

彼女たちができたこと

 

さて、では夢を消さないとは何だったのか。
彼女たちがその歩みのなかで達成したことを考えてみよう。
味気ないがいくつか羅列すると、
・スクールアイドルAqoursの結成
・ピアノに再び向き合えたこと
・無理だと思ってることに挑戦したこと
・友達との長年のすれ違いを解消したこと
・0から再び挑戦しようと決心したこと
・友達にとっての自分に気づくこと
・最後まで足掻くと決めたこと
・互いの個性を受け入れること
・あらゆる手段を使って短時間の移動に成功したこと
・悲願のパフォーマンスに練習の末成功すること
・大会が終わっても自主的にライブを開きスクールアイドルを続けたこと
・閉校祭を成功させたこと
・勝ちたい理由を見つけること
・大会で優勝したこと
・輝きを見つけたこと
といったところだろうか。

きっと修正や補筆のご意見は多々あるだろうが、そこはまぁ今回は勘弁していただきたい。

さてここで達成できなかった統廃合阻止と比べると、達成したことは自分ないしは自分たちで完結することがかなり多い印象を受ける。
基本的に彼女たちは本当に手が届くところまでしか、何かを変えられていない。

 

 

 

 

世界の変え方

 

それでも彼女たちは夢を叶えた。キセキを起こした。輝きを見つけた。
特別な力を使ったわけでも、幸運な何かが起こったわけでもない。壁を全て正面から超えられたわけではない。それでも彼女たちは辿り着いた。

 

「無駄かもしれない。でも最後まで頑張りたい、足掻きたい。」
「テンポも音色も大きさも」「1つ1つ全部違ってバラバラだけど」「1つ1つが重なって」「1つ1つが調和して」
「私たち思うんだ。キセキを最初から起こそうなんて人いないと思う……だから、起こせるよキセキ。私たちにも。」
「これからもずっとダイヤさんでいてください」「わたくしはどっちでもいいのですわよ、別に。」
「まだ自分は普通だって思ってる?」
「じゃあ救ってよ!」「それだけが学校を救うってこと?」「この学校の名前を残してきて欲しい」
「じゃあ最後にしなきゃいいんじゃないかな!」
「だから新しいグループで違う雪の結晶を見つけて…」
「この雨だって全部流れ落ちたら、必ず星が見えるよ。だから晴れるまでもっと、もっと遊ぼう。」
「私たちの過ごした時間の全てが、それが輝きだったんだ。探していた私たちの、輝きだったんだ。」

 

彼女たちの世界の変え方、それはシンプルに自分の視点を変える、ということだったように私は思う。そうすることで大会に優勝し、学校の名を刻み、輝くという、夢の未来を掴んだ。
上記の例だけではない。サンシャイン!!においてターニングポイントになるような重要なセリフは、多くが彼女たちにとって新たな気づきをもたらすものであったはずだ。

もちろん平坦な道ではなかった。ある種9人の内浦の女子高生が叶えるには無謀な夢であったことは間違いない。でも彼女たちは壁に何度もぶつかるなかで、自分たちの視点を幾度となく進化させてきた。それはそう、大それたことを成すには十分なほどに。 

 

 

壁は依然として目の前にある、でもそれは果たして本当に超えなければいけない存在なのか?もしかしたら味方ではないか?あるいはその壁を壊せなかったとして夢を叶えることはできないのか?あるいは壁を超えるために必要なものはもう持っているのではないだろうか?

 

彼女たちは壁にちゃんと向き合ってきた。でも真っ直ぐ超えることばかりが大切なのではない。
統廃合阻止という壁を超えなくたって、視点を変えたら学校を救う方法はあった。
諦めなければ道は拓く。それはただ猪突猛進することではない。MIRACLEを起こすには我武者羅に練習するだけではなく、自分の力を信じることが必要だった。

何度阻まれようとも諦めず叶えようとすれば、見えていなかった道に気づくかもしれない。

新たな道は夢へと続く道かもしれない。

自分の世界が変わったとき、その手の中には客観的な世界さえ変える力があるのではないか。未来は変わるのではないだろうか。


見方を変える。世界の映り方が変わる…夢が叶う世界へのジャンプ。もう一度頑張る。結果が変わる。夢に近づく。


自分と向き合うこと、仲間と向き合うこと、そこに大切なヒントが隠れている。

 

諦めない、とはなんだろうか。
私は端的に「頑張る余地を見出すこと」がその1つではないかと思っている。視点を変えることと表裏一体の関係にある。
メンバーの個性が強くバラバラという問題、無理にどちらかに合わせることはできなかった。ここにもう頑張る余地はない。
でもチームとして結束を高めることは諦めない。視点を変える。雨水が落ちる音のようにバラバラでもバラバラのまま重なって1つなれることに気づく。無理に合わせずそのまま一緒に頑張ればいい。目標は達せられる。
普通の人間は夢に向かうとき、何度もつまずく。でもまた先に進もうともがいたとき、自分が変われば新たな道が見える。何度もそうすることで、心のどこかで憧れていた誰かにやっとなれる。
最初からできる自分である必要なんてない。

 

人それぞれ才能も性格も経験も違う。だからこそ他の人ができた方法で何かを成す必要なんてない。自分ならばこそ頑張ることができるやり方を見つけること。まだ間に合う方法を見つけること。私たちなら達せられる道、私たちだけの道……いつか辿り着いたとき振り返ればそこにある私たちだけの輝き…………

 

 


Aqoursの道のりは漠然と我々の勇気を奮い立たせる。それは何故か。
きっと特別じゃないことの積み重ねだからだ。
それは私たちの人生においても変わらない。夢があるなら、その夢の本質を知り、そして壁にぶつかったら、自分なりの超え方を見つければいい。努力の余地がある道を探せばいい。叶えたい夢のためにひたすらそれを繰り返すのだ。千歌ちゃんの言っていたキセキはあるいはその先にある達成ではないだろうか。
必要なのは、夢中になれる最初の輝き、そして叶えるまで道を探し続ける勇気、我々の胸にもあるその勇気だ。

 

 


語るということ

 

「語る」即ち「物語」とは何か。
・千歌はスクールアイドルになった
・浦の星の統廃合が決まった
Aqoursラブライブて優勝した
これは事実の列挙である。

 

これを語ってみよう。
スクールアイドルになった千歌は学校を救おうとしたが、あと一歩及ばず浦の星の統廃合が決まってしまう。しかしその先に自分たちだけの道を見つけたAqoursラブライブで優勝することで学校の名前を刻み、浦の星を救った。

 

少しは物語らしくなったか。

 

抜き出す情報を変える。
スクールアイドルになった千歌は学校を救おうとしたが、あと一歩及ばず浦の星の統廃合が決まってしまった。千歌はラブライブへの意欲を失ってしまった。

 

こうすると当たり前だが全く別の話である。

 

あるいはAqoursの優勝したラブライブは他のスクールアイドルにとって敗北の物語だ。

当然のことをつらつら述べてしまい恐縮だが、
つまるところどの視点でどんな結果に向かって語るかで事実の意味合いは変わってくる。
historyとはstoryだ。
歴史はご存知の通りどの立場で話すかで同じ出来事の意味合いが全く変わってくる。

 

WONDERFUL STORIESに至るには、彼女たちは1つでも何かを諦めてはいけなかった。悲願のゴールに至ったとき、そこから軌跡を語るとき、その道は輝きとなる。キセキの物語になる。

梨子ちゃんの2期最終話での、進んできた道の正しさを証明する、とは全てのことにキセキの完成をもって意味を与えることかもしれない。
1期最終話の起こること全てを受け入れて楽しむとは、全てに意味を与えて、全てが輝きの物語になることに必要な条件にも思える。

 

 


こんなことを考えていると、私はこの物語に奥行きを与えているキャストの力を感じる。
全員が全員それまで順風満帆であったわけではない。でも夢を諦めず、ここならとラブライブという可能性に手を伸ばした。そこに今のメンバーだけの道があった。

 

ほとんどのキャストが新人という状況で臨むラブライブ!という大きな大きなコンテンツへの挑戦。
等身大では決してない、広大な海へと泳いでいくような無謀な挑戦。
でも彼女たちも自分たちだけの道を必死の努力の先に見つけてきたのではないかと思う。それはAqours1人1人が、抱いている夢にAqoursでなくなった後も向かって行く、それぞれのキセキ。

 

 

ラブライブ!サンシャイン!!とは夢を消さなかった彼女たちが紡ぐ、消えない夢の物語だ。

走り書きの宣伝など

吹奏楽の演奏会に来て欲しい


都民になったこともあり最近やたらTwitterで演奏会来てください!と叫んでる私なんですが、そもそも、そもそもだ
「なんか中学のときブラバン部がやってたけど眠かったわあんなん」
「あー響けユーフォね、みぞれちゃんかわいい。うん。」(なお私は未履修)
と、まぁ普通に生きていたらまず興味なんてない分野であることは間違いないわけです。
私だってスポーツとか全くダメですもんね。

 

しかしその道に生きる身として、より多くの方に聴いて欲しいというのは正直なところ。
そこで、今回は私の知ってるオタクたち向けに(なってるかは分からないけど)、よっしゃ次の演奏会には行ってやる!と思っていただけるよう、
吹奏楽のココがいいぞ!というところを紹介しようというのが今回の試みです。

 

さて本題の前に少し「吹奏楽」ってなんぞや?というところを整理しなければなりません。
吹奏楽と一言いっても国毎に差異があったり、吹奏楽という日本語が包括的な意味を持っているたりするために死ぬほどややこしいのが現実なのです。
そこで今回は大きく以下の4つの演奏形態を理解してもらえたら嬉しいです。

 

①オーケストラ
サントラでよく使われる言わずと知れたアレ。
ヴァイオリンをはじめとした沢山の弦楽器が指揮者を取り囲み、後ろの方に各楽器2人ずつくらい管楽器がいる。16世紀くらいには登場しており非常に長い歴史を持つ。

 

②マーチングバンド
歩きながら演奏するアレ。軍楽隊の血を濃く引いている。
歩きながら外で吹けるやかましくて丈夫な管楽器と打楽器が中心。

 

ブラスバンド
ブラス=真鍮である。つまり金管楽器(と打楽器)のみで編成されたアレ。ヨーロッパで人気。ホールでも外でも演奏される。19世紀くらいから発展してた気がする。

 

吹奏楽
今回の主役。
木管楽器金管楽器、そして打楽器で編成される(弦楽器はコントラバスだけいるよ)。
元々は軍楽隊が出自だが、現在の編成になったのは20世紀に入ってアメリカの教育機関においてである。
クラリネットが沢山いたらコレ。
その他特筆すべきこととして、標準編成に最近(19世紀半ば頃以降)になって発明されたサックスやバスクラリネットユーフォニアムが含まれる。
(オーケストラでも最近の曲だとたまに使われるが、それは比較的イレギュラーなパターン)

お分かりいただけましたか?
ちなみに②〜④は広義の意味で全て吹奏楽なのだが、今回は④の狭義の吹奏楽を扱います。


え?そもそも楽器の分類もよく分からない?
当たり前ですよね。
ざっくりこんな感じに覚えてください。
(これも楽器分類学とかいうAZALEAも真っ青な研究分野があって本当にややこしい)

 

・弦楽器
名前の通り弦がある。それで音を出す。
オーケストラで使うのはそれを弓で弾くやつ。ヴァイオリンとか。右手でわちゃわちゃ動かしてるのが弓。弦楽器の中でもこういう楽器を特に擦弦楽器サツゲンガッキなんて言うよ。
ちなみにギターも弦楽器だけどこれは特に撥弦楽器ハツゲンガッキ。覚えなくていいよ。

 

・管楽器
管に空気を通して音を鳴らすやつ。
リコーダーとかね。ペットボトルに息入れてぼーって鳴らしたらつまりそういうこと。特に金管楽器木管楽器とに分かれる。
これの厄介なのは金属製だったら金管楽器、ということではないという罠があるとこ。
マウスピースを使って自分の唇を振動させて音を出す構造を持った楽器が金管楽器
えっよく分からない?とりあえず後ろの方にいるトランペットトロンボーンホルンユーフォニアムチューバが金管楽器って思ってください。
木管楽器はマウスピースを使わない管楽器全般(雑)のこと。ちなみにクラリネットとサックスにもマウスピースというパーツがあるのだけど、金管のそれとは全く別物(死ぬほどややこしい。

 

・打楽器
音を出すのに行動に「物理」が見られたら大体これ。ただし弦楽器は除く(大人の事情)。目立ってかっこいいけど間違えたときは死ぬしかなくなる。
勘違いプレイヤーが多いのもココ(私怨)


はい、皆さんがここに辿り着くまでに9割の人がブラウザバックしました。
悲しいですね。私は必死なのに。

 

ではですね、本題に入りましょうか。私もかなり疲れてきました。

といってもオケの魅力とも被るところは多いので、それ吹奏楽だけじゃなくね!?みたいなのは許してください。
別に吹奏楽だけの魅力!とか言ってないし!

 


①クラシックって眠くならない?
はい、これです。まーーーだいたいこれです。
いやでも言ってしまえば映画やアニメのサントラと楽器編成は似てるのです。映画音楽の演奏会とかありますし。
皆さんにも好きなサントラありますよね?好きなメロディありますよね?
ある意味クラシックはメロディの宝庫です。1つの曲で沢山の旋律が姿を現します。前に現れたメロディが途中で形を変えたりします。
あなたが生まれてから探し求め続けている理想の旋律はもしかしたらクラシックの中に存在するかもしれませんよ。
あとクラシックって長い曲って長いからこそ2回3回と聴くと感じるものや聴こえ方が全然変わってきます。名作映画と一緒です。たぶん。

 

②いやでもやっぱ長いよ……
ええ、ええ、そうでしょうとも。
1曲1時間以上とかわりとあります。
でも吹奏楽は10分前後の作品もかなり充実しています。
あるいは考え方を変えてみてください。
ちょっと邪道っぽい聴き方ではあるのですが、長い曲は1つの壮大な音楽的物語です。
原題はSongs of Sailor and Seaという曲です。ちょっと聴いてみてください。
https://m.youtube.com/watch?v=aDb0HCEM9Z8
はい、ありがとうございました。
どうです?タイトルと曲の内容からどんなイメージを持ちましたか?試しに先ほどの記憶を辿りながらもう一度聴いてみてください。
ちなみに1楽章は「Sea Chanty(船乗りの歌)」、2楽章は「Whale Song(鯨の歌)」、3楽章は「Racing the Yankee Clipper(高速帆船の競争)」という副題がついてます。
海が見えましたか?鯨の神秘的な姿は見えましたか?
要するにクラシックは歌詞がなく曲自体も徐々に変化していくことから非常に情景を想像するのに適しているのです、
例えば詩を読んだときのように、曲の世界は我々のなかで無限の姿をとります。

今度は日本人の曲から1つ。
https://m.youtube.com/watch?v=QwRTP70yU1k
非常に明快な作りになってます。普段の私はこんなのクラシックじゃない💢💢とかキレてます。
まぁそれはさておき物語を具体的に想像してみてください。良い感じのストーリーができましたか?

クラシックの醍醐味の1つは作曲家の世界へ自分の感性をもって触れようとすることです。常々私は言っていますが感想は自由です。その曲の世界への体験を通して豊かなものを沢山捕まえられたら幸せです。


③楽器あんなに沢山いる意味あるの?
はい今日3つ目のごもっともです(自演
吹奏楽の面白さはここなんですここ。楽器がわんさかいるところが大切なんです。
はい、Aqoursのオタクはなんでもいいので直ちに好きなサントラ聴いてください。
OKですか?じゃあその曲で使われてるなかで一番好きな音色はなんですか?
はい、それですね。
じゃあそれが全く別の楽器だったらどうでしょう、ブブゼラとか、いやブブゼラに恨みとか全くないですけど。
ともかくそうです。そうなんです。
楽器1つ違えば曲のイメージは大きく変わります。その楽器が使われてること、その音色でそのメロディが奏でられることには大きな意味があるのです。
ほらポップスでもアコースティックver.とかあるじゃないですか?Daydream Warriorのアコースティックとかエモくないですか?私はエモくないと思います。

いやでもこの楽器の多さこそオケや吹奏楽の魅力なんです。
世の中には特殊管という概念が存在しまして、フルートとピッコロとかオーボエコールアングレとかファゴットコントラファゴット とか、まーともかくその楽器を小さくして音高くしました!楽器大きくして音低くしました!みたいな楽器群がいまして、音色も独特なものになるんですね。
そういうのを含めると何十種類の楽器があるわけで、しかもそこになんでもありの打楽器が加わるんです。
そして、更に管楽器の音色は別楽器同士でも溶けやすい、という特徴まであります。つまり醤油とプリン的な発想で全く別の新しい音色が生まれるのです。
百聞は一見にしかず。いやこの場所な百読は一聞にしかず。
楽器紹介の名曲、ボレロ(オケ)をお聴きください。いや吹奏楽じゃないんかい!って話なんですけどラヴェル(作曲家)の楽器の使い方明らかに人間じゃないんですよね。
https://m.youtube.com/watch?v=mhhkGyJ092E

それだけじゃありません。色彩豊かな作品を描こうとしたとき、それに適した沢山のパレットが必要です。楽器はカラーです。
信じられないことに曲によっては40人近い人が別のこと(音量の都合で人数は40人でもパート自体は20くらいとかいうこともあります)(合唱のときとかの人数とパートを思い出してください)をしながら1つの曲を作り上げることもあります。
楽器に演奏者の個性、全く別のカラーがそれぞれの役目をそれぞれの色で描くからこそ1つの作品が生まれるのです。
というか、時間と音を頼りにイヤモニなんてなく何十人の人が様々思いを抱いて1つの曲を紡いでいくってめちゃくちゃ面白いと思いませんか?


④あいつの気持ちが音に乗って……!みたいなことってあるの?

まぁないですね。漫画とかアニメとかもう会話しとるやんけ。演奏に集中せんかって感じです。お喋りしてたら多分指間違えます。夢も希望もない。
でもそれは具体的な気持ちの話。
抽象的な、例えば感情というレベルであれば(演奏者が伝えようと思っていれば)伝わるときもあります。
あっアイツめっちゃ愉快そうに吹くやん!とか、めっちゃ緊張してるやん!とか、完全に曲の世界に入っとるやん!とか、なんか降りてきてる…………とか、奏者同士は音楽があるからこそ繋がって音楽に向ける感情なりが1つになるときがあります。2人でデュオのソロやるとき、タイミングはもちろん相手のことをよく知ってると「あぁ、今この人はきっとこんな気持ちで吹いてるんだろうなぁ。じゃあこの後はこう吹こうか」なんていうのが分かり合えるし、
指揮者との関係も不思議なもので、慣れてくるとアイコンタクトでいけるようになるものです。個人的に最長なメッセージは「この後のソロは本来だと別の楽器にあるけど今はお前いけるよね?」です。
あれ、わりと具体的な気がしてきた……。

さて、この話は奏者や個人間の感情だけではありません。
ステージに50人の人間が立って、全員がその曲をそれぞれに必死に完成させようと試みているのです。そこに確かな鍛錬と感情が宿っていればときに1人の力を明らかに超えた何かが生まれるときがあります。
まるでその曲の世界へ奏者と聴衆が入って溶けていくような、大きな波のような、たぶんあの感覚は何十人もの演奏者という母体があるからこそホールに生まれる特別な何かなんじゃないかと思うのです。

楽器には時にその人の人生が映ります。50人の人生を背景にしていま1つの曲がカタチになるのです。そしてまた、聴き手にも人生があり、それを前提に作品を聴くのです。
曲の抽象性を描く多様な人生が、多様な人生を歩んできた人の中でまた無限の想像力をもってイメージとなるのです。

おそらく、吹奏楽のステージは最も沢山の色と感情が動く場所なんじゃないかな、なんて思ったりしていて、
そんな理想じみた場面は少ないのですが、それでも人生のなかでそのときを思い返したときちょっと思い出の色が違っている、そんな時間になったらと皆さんにクラシックの演奏会へ足を運んでいただけたら嬉しいなと思っています。

Aqours LIVE & FAN MEETING 〜Landing action Yeah!!〜に寄せて

Aqours LIVE & FAN MEETING 〜Landing action Yeah!!〜が先日遂に千秋楽を迎えた。
千葉公演は幸いにも初日公演と千秋楽に参加することができたので、そのときライブで感じたことをつらつらと書いていきたい。
きっとトークパートについては私では到底及ばないレベルで魅力を伝えるレポートが沢山皆さんの元へ届くはずだ(あるいはもう届いてるかもしれない)。

 

 

そもそもファンミというイベントは、最初のトークパートの印象からしてライブもライトに楽しく、といった雰囲気になるのかと思っていた。
しかし大阪公演の蓋を開けてみたらどうだろう。決してそんなことはないと分かったし、初の現地参加となった札幌では純粋なライブと同様にパフォーマンスが進化しているのをひしひしと感じた。
札幌と千葉初日はキャストの表情がはっきり分かるレベルの前列だったため、今までスクリーンに断片的に抜かれていた過去の情報と、目の前の現在の情報を自由に比較できたので非常に刺激的だった。
更に今までカメラや距離のせいで見えていなかった高槻かなこさんのパフォーマンスの様々な情報を目の当たりにして、札幌では大きなショックを受けたほどだ。
また、私はどうしても土日に自身の本番が入ることが多いため、全公演のLVに参加できたわけではない。なので、或いは時間が空くことでもしかしたら差異をはっきりと感じたのかもしれない。

 

 

 

 

 

挑戦的な企画、十分な準備、挑戦的な本番

 

 

 

私は常々思う。
理想の本番のスタンスとは何だろうか?

 


1つ、私個人が自らクラシック音楽の奏者としてステージに立つとき意識することは、「練習以上のことをやろうとしないこと」である。
基本的に我々は本番においてパフォーマンスに''傷''をつけることは許されない。いくら練習を重ねていても、仮にそれが万が一のアクシンデントでも、それは音楽にとって関係ないことである。最低限正しく楽譜通りのカタチにするのは絶対ともいえよう。
できない曲を演目に選ぶのは、作品への冒涜だし、作品は、ステージは、努力発表会のための材料ではないのだ。コントロールできるレベルで企画段階から作っていくのが1つステージを作るのに大切なことである。
そこから来たる本番に向けて、そこで傷なきベストなパフォーマンスができるよう練習を積む。
そして迎える本番では、今まで積み重ねてきたことを結果として残す。逆に言えば今までやってきたことだけを本番に出す。
もちろん、周囲の空気と本番の集中力が練習以上の成果を残すこともあるのだが、それは意図せずのことで、
本番に枷を外してその瞬間限りの圧倒的なパフォーマンスをコントロールできるのはその道の本当に一流のみだろう。
そういう場面でスイッチの入るシーンは創作等では多く、私もそういった展開は非常に好みなのだが、現実は少々ドライだ。それで上手くいくなら誰も苦労しないし、冷静に考えるとたった一度の本番にそれだけのことをピタリと成功させられるなんてことが普通に起こり得るはずがない。
ちょっと話が逸れかけたが、ともかく、人は突然今まで以上のことはできないし、
少しでも今までの枠を越えようとすると、失敗のリスクが一気に上がる。練習とはその繰り返しだが、本番はそれらの結果を出す場だ。
全員で1つの完成形をつくりあげる。最良の音楽を生む。そこに身の丈に合わぬことをしようとして傷をつけるわけにはいかない、ということだ。

 

 

 


だがAqoursはどうだろうか。

 

1st,2ndと120%(数字の具体性に意味はない)の努力が必要ともいえる企画を立てて、150%の練習を重ねて、200%の本番が披露されてきたように思う。

今回のファンミに焦点を移そう。
まずこの半年のファンミシーズンは2期の放送とも重なるうえに各個人の仕事についても各方面で活躍があった。全公演を終えて1ヶ月後には函館ユニットカーニバルが控えている。
その中でAqours自身が言っていたように、本当に沢山の曲を披露してくれた。
既存の曲だから楽、なんてことは全くない。
たった半年にも及ばぬ期間で行われた1stライブと2ndライブ、すぐ次へのライブへとモードの切り替えが必要だった以上、1stでしか披露されていない曲を思い出すのは簡単ではないはずだ。しかも2ndの曲も更なるレベルアップのうえ披露されている。
一度の公演の曲数は当然多くはないが、選択式というその場での切り替えと、演らないかもしれない曲への準備までやってくれた。
会場毎に舞台に差があるなか、投票後にスムーズに次の曲のフォーメーションに変わる姿にリハーサル等での用意を窺い知れた。

このファンミを通して、Aqoursはいくつもの自分たちの曲を、コントールし得る持ち曲へと昇華させたような印象を受ける。
後で少し言及するが、歌やダンスにおける「遊び」の要素が2ndから更に進化し、自然で自由度の高い、その場における本人達の欲求がより反映されたものになっていた。
ファンミは9会場かつ各場所複数公演ということで、本番の数を重ねるという非常に重要かつ貴重な機会を得たことが大きい糧になっていると思う。これが経験値となりステージへの理解や勘が新たな段階へと至ったのではないだろうか。(そう思うと一体3rdではどれほどのものが見れるのだろうか……)更には本番での反省点をもって練習へのフィードバックを多く行われていたはずだ。

もちろん本番を重ねれば良いという問題ではない。十分すぎる練習があり、その成果をどう本番にぶつけていくか、にこそ経験の重要性があるわけで、溢れんばかりの積み重ねがなければ意味がない。

ともかく2017年に沢山の曲を披露したAqoursにとって、今回のファンミは1曲へ向き合う深さを強化するのに適した、十分に挑戦的な企画だったと思う。そして練習についても(例えばフォトテクの降幡さんのお話のように)個人の日々の見えない努力もはっきり分かるくらい、量も質もこれ以上なく行われてきたと感じる。

 

だがAqoursAqoursたる理由は、やはり本番にこそある。
ここまで完璧に仕上げてきたといえる企画と練習を、その用意をしたうえで更に本番で何かを越えようとパフォーマンスをするのだ。

本番にぶつけるホンキ、これは少なくとも私には簡単に理解し得るものではなかった。
熱量の凄まじさは当然知っていた、でも内に秘めるアツさはもっともっと、まるでフィクションの世界に存在するような情熱だった。

 


千葉公演の1日目に鈴木さんは怪我をしたという。2日目にはドクターストップに至るほどのものだ。
全く分からなかった。いつそんなことが起こったのか、気配さえ見えなかった。Landing action Yeah!!のソロ、足の痛みを全く感じさせないどこまでも伸びていく光の線のごとく美しい音だった。
2日目の昼公演、そんなことを微塵も感じさせないパフォーマンスだったという。
脳内物質が出ているにせよ圧倒的ではないだろうかと思う。無理して振り絞ると少なくとも音は相応に荒くなることが多い。そんな当たり前を越えるステージ、2ステージと少し、ライブではない、ファンミのライブ''パート''。これが最後じゃない。それでも我々に見せてくれた、1ミリだって後悔を残さないような、極限の姿勢のステージ。それを悟らせない、どこまでも楽しいステージ。

常々思うのだが、Aqoursのライブにおいては常に100%を約束するようなステージに、少なくとも私は重きを置いてはいない。
きっと私は、本番でさえ何かを越えようとする姿勢そのもの、そしてそこから生まれる200%のステージが、大好きでたまらないんだと思う。
できることをやって満足、ではなく、ここまでできるから次はもっと先へ、というのが本番にあるステージが、質の高いパフォーマンスと合わさって、
どこまでも我々の心を掴んで離さない瞬間が生まれている。

十分すぎる練習を積んでも現状に満足せず、本番でも殻を破っていく姿は、
常に貪欲かつ無謀で挑戦的な彼女たちだからこそ許され、そして魅力的に仕上げられるステージではないだろうか。
無茶とは違う、彼女たちはその資格があるとファンが認める、ステージ上での無謀さだ。そして挑戦する度に立ち塞がる壁を何度も超えてきたことを、我々よく知っている。
一般的に期待されるであろう100%のステージが約束されているような状態で、それでもなお、という熱量があるのだ。
今回千葉で披露されたのはどれも今までに何度も歌ってきた曲たちである。だが慣れた曲でもその慣れに安住して''普通''のパフォーマンスをすることはなかった。もう何度目になるかという舞台、そして勝手知ったる曲においても、何か予期せぬ一瞬があれば大事に至ることもある、そんな限界を攻めるステージに挑んでいる。

 


8人のステージ……9人いてこそAqoursというのは誰よりもメンバーが分かっているだろう。
事実、間違いなく9人のパフォーマンスとは別物だった。カタチ上のフォローはできても、鈴木さんの代わりは誰にもできない。
では千秋楽の公演はどうだったであろうか?
蓋を開けてみたら、我々は8人のパフォーマンスに熱狂した。それは決して鈴木さんへの思い遣りとか、そういったものではない。
Aqoursを観に来たファンを、彼女たちは8人で呑み込むというステージを生んだのだ。

私は今回比較的近く、かつ上方からステージを観ていたが、何度か舞台を見る焦点が定まらないときがあった。明らかに1人抜けた8人のフォーメーションが、それでも1つの有機体として大きく動くことがあったからだ。
スリリング・ワンウェイのラスト、いつも激しい動きを見せてくれるが、今回においては1人1人がなんと大きかったことか。1人のメンバーの気持ちも背負って、8人としてパフォーマンスする覚悟と情熱が今までとはまた違った炎を見せてくれた。

物語は大きい存在だ。でも、ライブにおいて全ての物語はライブに還元される。
我々が観ているのはライブだ。物語ではない。圧倒的なパフォーマンスこそが最大の説得力である。物語の役目はそれに文脈を与えることだ。
故に目の前のライブがどういったものか、こそ、運命を決める存在といえる。物語はライブというアウトプットのために語られる。

ともかく、少なくとも、あのとき多くのファンが8人のステージに没頭したのではないだろうか。練習とは全く異なるステージ、それをあそこまで圧倒的なライブとして実現させたのは、どんなときも挑戦し続けてきたAqoursの無謀さなのかもしれない。

 

 

最後に個人のパフォーマンスについて少しだけ。

高槻かなこさん、
Aqours CLUBや雑誌のインタビューで語ってきた「歌、ダンス、お芝居、トーク、全ての能力を高める」ということ。その片鱗を千葉1日目で感じた。
2ndから表情の作り方には惹きつけられてきたが、ファンミを通してバリエーションがさらに増え、今回は1つ1つのそれにリアリティが深くなった印象がある。より花丸ちゃんの気持ちと繋がったということだろうか。
そしてダンスの表情がとても豊かになった。1つ1つの動きが、顔とリンクし、感情を生み出していく。苦手としていた分野で振り付けを完成させる先へ、表現の1つとしてコントロールしているような印象を受けた。
歌、ソロのワンフレーズは圧倒的に完成されたワンフレーズ。音程、フレージング、音色、それらが響きとなって会場の色を変えている。千秋楽のハミングフレンドソロは、フレーズの揺れに本番でこんなことまでできるのかと全身に鳥肌が立った。
何より特筆すべきは、これらの全方位におけるレベルアップが、パフォーマンスとして1つに統合されていたことだ。
正直、ここからは各スキルがそれぞれ伸びて完成されていくんだろうな、などと思っていたが甘すぎる考えだった。「高槻かなこの世界」として新たな表現の次元を垣間見た思いである。
完璧な花丸ちゃんが待つのはこの先なのだろうか。ともかく定期的に間近でパフォーマンスを観たいと、激しく思う(まぁ叶わぬ夢なのだが)。

 

逢田梨香子さん、
最初は音楽についてどちらかというと不得意なイメージさえあった。
1stではその全てを払拭するような、本物の音楽を聴かせてくれた。
2ndではテンポや音程といった、音楽の基礎的かつ重大な能力についてかなり高いレベルに至っていることに衝撃を受けた。
そしてファンミでは、千葉1日目のハミングフレンドソロ、彼女もこれが本当に素晴らしかった。最近のレコーディングで顕著な想いの詰まった表現、これが、まさにCD音源というレベルで披露された。ついに音楽を自分のものとして表現するレベルで歌った姿に私は震えた。
Pianoforte Monologueでも思ったのだが、声優としての技術か、或いはストレートに言葉を発するご本人の性質だろうか、
歌声と感情のリンクが非常に強い方じゃないかと思う。まるで溢れた感情を紡ぐ言葉のような……そんな歌うことと特別な相性の良さがあるようにさえ感じる。
これから、もっと音楽を自分のものにしたとき逢田梨香子さんの歌はどれほどの力を持つのか。本当に楽しみである。

 


次は函館ユニットカーニバル。
アーティストの方向へと振れた楽曲を彼女たちがどう表現するか、また未知の世界へと連れて行ってもらえることを幸せに思う。

Aqours 素晴らしき2期の楽曲

遂にWATER BLUE NEW WORLDとWONDERFUL STORISESのCDが発売されました。

サンシャイン!!2期を彩った曲たちが全てFull解禁となったということで、
浅く、薄い、私の感想をつらつらと書いていこうかと思います。
ざーーーーっと書いたので要検討事項もあればどこか修正するかもしれないのですが許してください!!
 
あと最大の注意事項ですが、私は死ぬほど音痴です。音高に関わる情報はそんなに期待しないくださいね!(正気か???
 
個人が思った「感想」なので、基本的に以上でも以下でもありません。
オタクの戯言にどうかお付き合いくださいませ。
 
 
 
 
 
冒頭が凄い。
オープニングの頭ということで青ジャンと同様に、しかしタイプの違う印象的な幕開けになっています。
光が広がるようにどこか荘厳だけど、キャッチーさは失われない…そんな作りです。
まず耳に入るのはウインドチャイム、これに合わせてシンセの音も上昇していきます。これがオープニングの映像と合わさって光が広がるイメージになっているのでしょう。
さらにその後、メロディに合わせてグロッケンとヴァイオリンが重ねられ、これが上品な煌びやかさに繋がっていますが、グロッケンからヴァイオリンへと音の主体が移っています。音量のピークがアタックの瞬間になる鍵盤楽器から、ピークを持続させられる弦楽器に変わることで、高音楽器の音色による光のイメージをそのままに効果が強まっています。点が線に、という感じでしょうか。力点ではチューブラベルが入り荘厳さも醸し出されます。
また、この曲は決まった音程を段階的に踏むのではなく、シームレスに上昇する電子音が何度も使われているのが特徴です。まるで我々のテンションの動きであったり、近未来的な印象を与えたりと独特の効果を感じます。(オンド・マルトノみたい)
伝わらない話ダメ絶対(暇な人はググってください
生ではないかと思われますがブラスの音もバッキングとして音楽を締めていますね。
あと楽器とボーカルの重ね方も面白くて、インストがボーカルラインをなぞるときは基本的にフレーズ終わりで、次々と曲の山場を生み出しています。
最後のサビは今までになく沢山の音が重ねられてわけわからないことになっていて、最高にテンションがアガりますね(語彙力)。ここまでやってボーカルを殺さず、音も濁らないのわりと意味がわかりません。
(ちなみに私的には2:52あたりで聴こえる高い回転音みたいは電子音と3:29で聴こえる青ジャンのときの信号音がエモポイントです)
 
 
 
 
めっちゃ好きです
Twitterでもわりと語ったので重複します。
最初から個人的なエモポイントを言うとやっぱりAメロ後半に入るテンプルブロックですね。
クラシックの現代音楽だとわりと聴くあれです。ドラムセットだとジャズ黎明期に録音環境の都合で使われたらしいですね。今はたまに攻めた感じのバンドとかが使ってるだとか(この辺私より詳しい人わんさかいそう)。
サビの「負けないで」の後のストリングス、中音域がニクいですね。この曲は比較的インストが薄いところも多いので、このストリングス隊の中低音がところどころで音に穏やかな深みを生んでいます。
さて、この曲の魅力は個人的にはドラムだと思っています。「夢は消えない」のところでやってる2拍3連(なまってる?付点8分×2+8分?)の動きが奇数的なリズムとして非常に強い印象を与えています。
私の趣味で言うと4分音符の強拍が続く部分が多く、まるでマーチのように前へ前へと進んでいく印象です。歌詞の「何度だって追いかけようよ」という言葉と合わさり、Aqoursの力強さがよく表れていると思っています。
「こころが求める〜」のパートでは冒頭のピアノが一瞬顔を出すのも素敵です。
 
 
 
3.MY舞☆TONIGHT
 
実質箏と尺八の二重協奏曲
冒頭の打楽器も羯鼓、ウインドチャイムも狭い音域で往復することで神楽鈴をイメージしたような鳴らし方になっています。更にその後グロッケンとコントラバスが加わることでまさに和洋折衷な音を生み出します。
Aメロ裏ではハープが8分音符で動きながらそこに装飾として箏が入ること(箏だけに)で日本とヨーロッパの琴が組み合わさってますね。
EFFYさんはピアノをイメージしながら箏の譜面を書いたのでしょうか。そんな印象を受けます。
また、サビは所謂三三七拍子になっており、これは「さくらさくら」や「靴が鳴る」といった民謡や童謡でみられるリズムで、メロディそのものも日本的な要素が意識されているといえます。
アニメでは1年生と3年生の関係がクローズアップされましたが、和と洋は花丸と善子、鞠莉さんとダイヤさん的でもあり、
ひいてはこの話のテーマであろう9人でいること、1人1人違うメンバーだから奏でられるメロディ、物語があるということ、を感じています。
個人的なエモポイントは落ちサビ前とその後サビワンフレーズ終わってから入るギターのグリッサンドです。The鞠莉さん。
 
 
 
4.MIRACLE WAVE
 
緊張と爆発の曲です。
ダンスの要素ありきの作品のためか曲の作りが他のものとは違う印象を受けます。
まず冒頭のギターのハーモニクス。不協和音も鳴ってます。これが最初の緊張です。
不協和音というと悪いイメージを持っている方も多いかと思いますが、これもまた特殊な響きを持つ1つの和音です。
必ずしもこれは不快感を生むのではなく、神秘的な響き、緊張感、不安定さ、様々な働きをします。
今回の場合はアップテンポなビートに突如不協和音が長い音価で現れることで、
曲に対して聴き手を引き付ける他に、そこにストレスがかかります。
重いものを押してそこにストレスかけて、最大摩擦力を超えその物が動いたとき、普通に動かしたときより達成感ありませんか?そんな感じですね(伝わらない
或いは息をしばらく止めたあとの呼吸でしょうか。独特の開放感がありますね。
そして、この爆発の後からメロディが始まる作りになっています。
 
さてこの曲の最大の特徴は1番のサビ前でしょう。
音価が長くなり、一気に音量が抑えられ、聴き手神経は緊張感を持って音なきソリストに向けられます。
波を起こす風を彷彿とさせるシンセに導かれギターが祝福の鐘を鳴らします。成功への祝福だけではなく、貴女が選んだその道は正しい、と告げる正解音のようでもあります。この音を踏まえて曲はサビに入り、そういう意味では未来へ繋がる音かもしれません。
曲においてインストは、メロディと一体になって、その曲の背景や顔を作るのですが、
この部分に関しては、ソリストである千歌ちゃんに対して音が客体的に働くという、ある種線を一つ引いたような関係になっているのが個人的にとても面白いと思っています。
そういえば冒頭といいギターが重要な役目を果たしている曲ですね。また、この曲は他の曲と比べても高音域のシンセが重ねられていて、基本的に聴き手を常にハイテンションに保つ音作りがされています。
何度か全パートが休符になるところもあり、これもまた音が途切れることで、曲に緊張と爆発を生んでいると思われます。
 
 
 
5.Awaken the power
 
ドラムの音色が面白い曲という印象です。
この音は皮のヘッドを用いて、緩めに張ればいいんでしょうか?強く深い音にしつつも、鳴りすぎない響きです。
2番では1番になかったパートが挿入されています。この構成はSaint Snowの得意技ですね。
ラストにはシンセでオルガンのような音が入ったり、おそらくティンパニと思われる音が入っています。4:25あたりのロールも良い仕事をしてますね。導入部はストリングスを使ったりすることで、ラストと同様にシンフォニックな雰囲気を出しています。「がんばるって」からのパートのシンセはブラスっぽくて好きです。
この曲は他の特徴としては、サビとかで顕著なのですが、メロディをなぞらないパートが短い単位で執拗に反復した動きをしています。ドラムやギターも短いパターンを複数セットやってる場面が多いです。
まぁこんなめんどくさいこと言わなくても冒頭部分のストリングスを聴いてのとおりですね()
ともかく、この反復こそが我々に一定のビート感とノリを与えて、ライブに向いた曲という印象になるのかもしれません。
 
 
 
6.WATER BLUE NEW WORLD
 
冒頭は宇宙でしょうか。
ピアノがメロディを奏でるなか、
裏拍から中音域の電子音の鼓動、
サスシンをきっかけにビート感がアップします。
テンションを抑圧して期待を溜めるようなビートの粒と、新たな目覚めの胎動の印象を受ける高音のシグナルが印象的です。
また、ここからストリングスのベースが入ります。この曲において倉内さんはバンド楽器が鳴っている様々なシーンにストリングスで大きな背景を作り、作品の世界観をより強固にするシンフォニックな厚みを生んでいます。
サスシン前の中音域電子音とサスシン後の高音域電子音は、音の最後があえてガサつく音色にすることで、映画のようなドラマチックな音になっています。私はここに宇宙にいるようなイメージを持ちました。
この後はギターやドラムが入り、バンド楽器が前面に出てきます。このパートの直前のヴァイオリンのトレモロが絶妙ですね。
ここからハンドベルのような高い金属的な音が入ってくるのですが、エフェクトがかけられているようで、輪郭のある星とその周りの光のようなカタチになっています。
「ずっとここにいたいと」からのパートでは、非常に特徴的な広がりのある音が入ります。これについては佐伯さんご本人が加工したサイン波(シンセ)というお話をされていました。
まるでこの音色はヴィブラフォンを柔らかいマレットで叩いたような美しい音で、
アタックは最初の音が1番強く、その後は徐々にぼやけて音自体も曲に溶けていき、まるで水紋を見ているかの如くです。同時にパンフルートのような、高地を彷彿とさせる音色でもあります。
このパートは後半からドラムがライドシンバルが前面に出てくることで、サビに向けた浮遊感が生まれます。
更にそこからクラッシュシンバルへと変わり小さな爆発を繰り返しつつ、一瞬の静止を挟みサビへと入ります。
サビ前の特徴として、ギターが力強く引っ張りながらも、それに絡み間を速いパッセージで動くストリングスが次へのダイブ感に繋がっている印象です。
サビ転調前はバンド楽器にピアノとストリングスが使われています。ピアノでメロディに厚みを与えつつ装飾し、ギターとストリングスはフレーズを長くとる動きで(たまに他の動きもしてますが)サビの壮大さを生んでいます。
そこから高音の電子音が光の粒のように上昇し、そして転調します。その後は光の線のような高音の電子音と、転調前より主張するピアノ、グロッケンのような鍵盤音も加わり、更に高音部のシンセが重ねられることで、
転調で音を上げるよりも、より一層強い輝きのイメージに繋がっています。
2番は1番に比べインストはよりクラシカルでメロディアスなイメージでしょうか。アニメの映像もあって神秘的な黒の背景に、様々な光が点灯したり駆けていくイメージなのですが、この基本的な色彩感を失わずに1番と違った作りにするために、インストの旋律性を用いて異なる響きにしているのかもしれません。
具体的にはピアノが1番では和音を他のパートと一緒に厚くするような動きだったのに対して、2番ではオブリガードのような動きやメロディをなぞるハモりの動きをして、明確な旋律の顔として現れます。光が流れていくような「どこへ向かうの?」の後に入る電子音の下降系も面白いですね。
「ずっとここにいたいね」のパートは2番ではヴァイオリンの4分音符の刻みが加わり、躍動的ですね。今度のサビは空白なしで、電子音の上昇と共に入ります。
そして2サビからの間奏への突入が凄い。
1サビで同様の動きを見せていたことからコードが解決(専門外なので違ったらごめんなさい)へと向かうと見せかけ、突如別の世界に入ります。
同じ景色を進んでいたら急に視界が変わり、新たな世界へと入った瞬間を意識させられます。それは例えば雲の中を進んでいたら、急にそこを抜けて青空が現れたような、そんな驚きがここにはあります。2番であえて基本的な色のイメージをキープしたのは、この瞬間の大胆な変化のためにも思えます。
楽器自体もあれほど沢山の音が重ねられていたところから、透明な壁でない壁を突き抜けたような低い破裂音と尾を引くような美しいウインドチャイムの中から、
ピアノと今まで使われていない音色のギター、そしてアーティキュレーションが非常に丁寧に作られたストリングスが現れます。白くて澄み渡るような情景が目に浮かびます。
そしてギターのメロディを挟み冒頭のフレーズへと入ります。ギターのパートを挟むことで最初とは逆行して冒頭のパートになるのが面白いですね。
ここでもストリングスの刻みが活躍し、上品に曲の落ちサビ前の盛り上がりを演出し、バスドラムも入ることで心の芯にも響いてきます。
最後のサビということで、今までの音に加えてギターが中心的な役割を果たしています。これで力強さを与えることにより、ここに来てサビが更に進化します。
また、落ちサビでは「MY NEW WORLD」だったのが、
1つ音を抜くことで「NEW WORLD」に変わっていますね。これをきっかけにして、最後のサビが今まで以上に音をキメる作りになっています。
というのもそれまでは「MY NEW WORLD」のあと、「新しい」の「あ」の音が2拍目の裏にあり、2拍目の表はドラムのアクセントになっています。なのでドラムとボーカルを合わせてタタンというようなリズムになり、畳み掛けるように曲はスピード感と力点を得ているように聴こえます。
一方、「NEW WORLD」では、ドラムとボーカルが2拍目の表に同時に入ることで、より強いアクセントに変わっています。
それだけではなく、今までは、
3拍目→my
4拍目→new
1拍目→world
2拍目裏→あ
ということで「新しい」のフレーズに入るまでボーカルに0.5拍の時間が空いていましたが、
最後は
3拍目→new
4拍目→world
1拍目→休符
2拍目→あ
となり次のフレーズまで1拍の時間が空き、裏と表が逆転することで、一瞬の緊張感と解放が生まれ聴き手に更なる高揚感を与えています。
そしてそこから疾走感を失わせないのが、この曲の恐ろしいところです。
これまでの音の置き方で落ちサビの方が0.5ほど時間が多く余りました。それを逆手にとっているのです。
「新しい場所」のフレーズは2サビまで、6つの音の粒で構成されました。
しかし、落ちサビでは1つ音を増やして8分を連続させた7つの粒にしているのです。これにより手数が増えて、曲の疾走感は今までと比べても落ちることがなくラストへ進みます。最大の見せ場を何度も超えてくるのがこの曲なのでしょう。
締めはストリングスとピアノによる終止。最後の1音がこの壮大な曲に美しく幕を引きます。
 

さて、この曲は梨子ちゃんの文脈でもいろいろ考えられますね。
ユメノトビラと同じ、
ピアノ伴奏中心のスローな導入→ギターのメロディー→バンド楽器中心のBメロ→Cメロが転調を伴い→サビへ
という似た構成になっていてます。
彼女が初めて聴いたスクールアイドルの輝き、全てのきっかけであるこの曲は、
やはりスクールアイドルに全てをぶつけんとする彼女にとって特別な想いと共に流れていたのではないかと思います。

しかし、彼女の想いは憧れでは終わりません。
ユメノトビラは導入とサビが同じメロディとなっていますが、WATER BLUE NEW WORLDは別のメロディで書かれています。
しかし「想いよひとつになれ」という自身にとって特別な曲が裏に隠れてこの2つのメロディ繋げることで、関係性を生み出しています。
冒頭とサビを同じメロディで繋いだユメノトビラに対して、
別の曲を用いて冒頭とサビの別のメロディを繋いだ梨子ちゃん。
これが、私だ、Aqoursだ、未来のスクールアイドルだ、と言わんばかりの作曲をしているのです。
伝説のスクールアイドルが未来へ繋いだバトンは、新たなヒカリとなって次世代のスクールアイドルの曲へと昇華します。
(メタ的な話というか現実的な話をすると佐伯さんの発想力どうなっているのか……)

 
 
 
8.WONDERFUL STORIES
 
ギターを中心に様々な電子音を使い、
さらにチューブラベルを用いた始まりがEFFYさんらしい曲です。
こういったクラシックなパーカッションが、曲に格式を与えるのに一役買っているのだと思われます。
ピアノが(印象的なグリッサンドを含めて)入ったり、ストリングスも顔を出したり、更にはティンパニが使われていたりと、ややミュージカル的な音作りが意識されているのかもしれません。お馴染みのグロッケンも使われていますね。
「青い鳥」からのパートでは、EFFYさんの曲ではお馴染みの電子音が顔を出します。このパートは2種類のクラップ音や張りを緩めたようなコンサートバスドラムの音が個人的にとても好みです。まだこんな引き出しあっただなんてズルいです。落ちサビ前と締めはハープですね。珍しい気がします。
 
 
 
・調の話を少し
 
Twitterでもよく話していましたが、
WATER BLUE NEW WORLD、は転調前のサビがAs-dur、転調後はA-dur
WONDERFUL STORIESはAs-durで、落ちサビの転調でA-durと
要所要所で''A''qoursの調が使われてきました。
それに対して、
MY舞☆TONIGHT、はD-dur(サビ)
MIRACLE WAVE、はEs-durと
なっており、これはそれぞれAs-durとA-durの裏コードなのです。
裏コードって何ぞや、という話は話声に詳しい人にお願いするとして、
その名の通り、全く違うようでありながら、共通点を持つゆえに、その調の代わりを果たすこともできる表裏一体の存在の調といえます。
これらの調の関係は、
D-Es→半音のキー
As-A→半音のキー
D-As→裏コード
Es-A→裏コード
Es-As→属調
E-A→属調
となっています。
WATER BLUE NEW WORLDは
B♭-dur(これはE-durの裏コードですが、2期でライブシーンが披露された君のこころは輝いてるかい、こそがE-durの曲です。μ'sがラブライブ決勝大会の場で最後に歌った僕らは今のなかで、もE-durですね)から始まり、
G-dur(今度はMY舞☆TONIGHTのメロディの調、Des-durの裏コードです。また、G-dur自体は想いよひとつになれのメロディの調です。)を挿み、属調のD-durに移ります。
その後はD→Es→As→Aと徐々にキーをあげつつAqoursの曲をなぞっていますが、各調にはそんな関係がありました。
 
※Awaken the powerのサビの調も非常に興味深いです。
ここではFis-dur(=Ges-dur)が使われていて、これは全く同じなのに2つの呼び方がある調なのです。この異名同音調は、全24の調のうちたった4種類しか存在しません。
2つのグループが1つになった、Saint Aqours Snowの曲だからこそに思えてきますね。
この異名同音調長調だともう1つ、Cis-dur(=Des-dur)という調があるのですが、これはMY舞☆TONIGHTのメロディの調です。この曲は1人1人違った私たちが集まってAqoursになる、という曲でしたね。和と洋、1年生と3年生という対比が1つになる場面でもありました。
 
 
 
 
・全てを聴いて思ったこと
 
というわけでAqoursの2期目の物語に関わった曲について一通り取り留めもなく色々と書いてみました。
(OPとEDには触れてなくてごめんなさい…ここで少しだけ……)
おそらくお気付きの方もいらっしゃるかと思いますが、君の瞳を巡る冒険とMY LIST to you!を含めて、
2期の関係曲は全て1番と2番で「時間の流れが違う」といえると思います。
まず多くの曲で、2番のボーカルラインが変化しています。同じフレーズを重ねる回数が増えたり、メロディの終わりの方が変化したりといったものが見られます。
ではそうでない曲はどうなのか、という話になるのですが、2番のサビ前のボーカルが途切れる部分の長さが長くなったり短くなったりしているのです。
この長さの変更の徹底は何を意味するのか、
ここに明確な答えがあるかは分かりません。
しかし私は、どうしてもサンシャイン!!2期で語られた「かけがえのないイマ」を考えてしまいます。
似ている瞬間はあるかもしれないけど、2度と同じ時間は訪れない。みんなと過ごした日々は進んでしまったらもう戻れない。毎日の練習だって、全部が同じだなんてことは絶対にない。それがミライへ向かうということ。かけがえのないこの瞬間・・・
本来は同じになることが多い1番と2番に流れる時間を変えることで、かけがえのないイマは2度はない、だからこそ大切にしなければならないのだ、Aqoursがそう我々に言っているように感じました。

3話のメモ書き的な

3話についての雑記(?
何かのヒントになれば嬉しいです


物語の雰囲気が変わる抽選会後のシーンから時系列的に追っていきます。


抽選会後

スポットライトからの転換
→13話のそれ
監督が物語を追うことより「彼女たちの心を優先したとき」
あるいは千歌ちゃんにのみ光を当てる(彼女の視点を中心に物語が展開することへの合図?
自ずとそこに注視させる方法


再び手を伸ばす
→2話のそれ
あのときは「何やっても楽しくない、どうしたらいいか分からない」梨子と「輝きを見つけた」千歌


千歌はまず梨子の悩みの助けになりたい。
千歌を信じてみたい梨子、やっぱり諦めたくないという気持ち。
→何をしても楽しくない、けど海に飛び込んだり、環境を変えたり、何かできることを試みてる
2人が諦めずに手を伸ばすから、現実がかたちを変えて、手が届く
梨子はピアノを諦めることなく、スクールアイドルへ。

 

今回は目標が共有されてる。
学校も大会も、どちらかなんて選べない。学校を救いたい、輝きたい。学校があるから輝ける。一方で、学校≠大会のような輝くための場所。
ダイヤの発言として大会は多くの人に見てもらえる場所

 

BGMは「つかめない光」
2人は手をちゃんと伸ばしているが届かない。
届かなくて笑いあう2人。
通じ合ってる2人、つかめない光、大会と学校2つを叶えること。
でも、どちらかしか選べないという前提に立っているから、それは仕方がないこととして認識している?だから届かなくても笑いあえる。
ピアノとアイドルを諦めなかったあのときとは違う。だから届かない?

 

梨子の提案。これは現実的な手段であり、気持ちで世界が変わるシーンにはなり得ない。

 

 

屋根とベランダの位置の差は一体?

終盤の回想、みかん畑ルート案を詰める千歌に梨子が「本当に諦めないね」と言う。
具体的な現状のベストを見つけても、そのうえで更なる理想のベストを追い求める精神。ここが2人の違いという可能性。

 

でもそもそも装置として、千歌は梨子が気づける悩む場所が屋根しかない。
以前梨子のピアノに気づいて手を伸ばしたのは廊下?なので、流石に不自然という考え。

 

 

梨子曰く、私たちにキセキは起こせない。千歌も同意している。
キセキは起こせないから、自分たちにできるところで精一杯頑張るしかない。

 

→後述のキセキの条件と重なるところは大きい。何かを変えたいと、ともかく頑張れば、普通の人でもキセキと呼ばれる結果を残せる。それは自分たちなりにベストを尽くすということ

 

→後述のキセキとは違う。そもそも9人で両方参加するという、理想の目標に向かってがむしゃらに諦めないことが大切。梨子は現実的な範囲で線を引いてしまっている。

 

 

梨子は1話においてどんな認識で「キセキを」と口にした?
1話のキセキと今回梨子が起こせないというキセキは別のモノ?
しかしその起こせないキセキは、最後に千歌の台詞で起こせるモノに変わる。

 

キセキの認識が変わっていってるという単純な可能性


1話→目標としてのキセキ。届かないかもしれないけど追いかけたいもの
3話中盤→手段としてのキセキ。起こしたいけど起こせないもの
3話終盤→結果としてのキセキ。手段が特別じゃなくても諦めなければ、目標が叶い、結果としてそれがキセキと言われる

 

(輝きに近づけば、キセキの姿がみえてきているような印象も少しある。また、類似性として、輝きたい!という欲求も最初からあったが、1期を通してその正体へ進んでいった)

 

 


大会組
→大会の効果に言及した黒澤姉妹(ルビィのコメントは弱め)と2年生

 

次のステージに向けて、と、メンバーに宣言し自信もあるような千歌。
しかし会場に入るとアウェイな空気に自分を含めて皆がのまれて歌い出せない。
千歌はここで自分のミスに気づく。といってもミスを認識する、というより、5人でこれからパフォーマンスすることへの不安。

 


説明会組
→説明会を優先するべきとした鞠莉や果南と花丸、善子

 

「勘違いしないように」
「私たちはやっぱり1つじゃないと」

 

まず前提として、11話は1つのAqoursとして離れた場所で梨子と他のメンバーが同じパフォーマンスをするようなニュアンス。
今回みたいにグループを2つに分けるのとは違う話である。

学校も大会もどちらか選べないから、2つに分けた。
しかし説明会組は、1つでなければ何かを成すことはできず、逆に2つに分けたままでは、学校も大会も失敗に終わると判断した。
物理的な早いタイミングで説明会組がそれに気づけば十分大会には間に合う。
奇しくも、説明会組は分割にあたり「それで本当にAqoursといえるの?」と述べた善子を始め、
一人一人ばらばらの自分たちが重なって一つの曲になる、ということを理解した雨の音の経験をしている。

説明会組が合流に際して伝えた言葉で、合流の理由ととれるのは「私たちは1つじゃないと」くらい。
彼女たちは説明会を諦める、という選択をしているが、それを気にしたり悔やんだりしている様子はない。
つまり、1つでないとそもそも何もできないということに対して強い確信があったと思われる。

 


そもそも説明会が大切で、全員揃う必要があるなら、大会組を呼び寄せるという手段もあったのでは?

 

 


新曲の歌詞
サンシャインは1期から物語とリンクした歌詞が特徴

 

挿入歌前後の切り替えを象徴するような歌詞

 

サビの「熱くなるため 人は生まれてきた」
熱と焔は縁語的


「命咲く 燃えている まだ小さな焔」
とは一人一人情熱を持ったAqoursメンバーそれぞれのこと?
「1つになれば キセキが生まれ」
ここはまさに2話で触れた通り1つの曲になるという気づきによるもの
そしてこれが3話に繋がる要素として「キセキ」の条件は「1つであること」だと分かる

 

「この世界がいつも 諦めない心に」
「答えじゃなく 道を探す 手がかりをくれるから」
この部分は直前のモノレールでみかん畑ルートに気づく千歌の姿に重なる。
2つに分けたのは失敗だったかもしれないし、キセキのような素晴らしい案はそういう意味では簡単に生まれてこない。
でも諦めなければ何か「道を探す 手がかり」が見つかるといえる。
この後のみかん畑ルート策定中する千歌の回想ラストの台詞
「道がある!」
という言葉にかかっている

 


大会終了直後
2年生の行動に黒澤姉妹を含め6人全員が驚いている。
→千歌はこれを知らせていなかった。ギリギリまでそもそも使えるか分かっていなかった?可能性として伝えなかったのは何故?リーダーとしてなんらかの判断?

 

逆に説明会組が持ち場を諦めての行動だったと分かる(といっても4人でライブしても効果は見込めないと判断している?

 

 


キセキを起こそうとするのではない
→キセキを頼りにする行動の否定でもある

みかん畑は間に合うか分からないルート、梨子が走りながらキセキは起こらないのかな、と言うことからも緻密なシミュレーションは行われておらず、
間に合わせるとしたら、これしかない、という認識か。
そのため全員でこれに懸けるという決断はしなかった
→そもそも説明会も大会も、というのが目標
しかし、それでもここまで考えるのは、諦めるという決断を下さないということ。

9人でないといけない、1つでないとできないことがある、
逆にこの9人でなら諦めなければ何でもできる(=キセキは起こせる)ということに、千歌は気づいたのか。
13話やキャストの言葉との重なり。

 

 

私たちにもキセキは起こせる
だって、虹がかかったもん

 

監督の言う、彼女たちの気持ちが変われば世界が変わる、という考え。
キセキの正体を掴み、諦めなければ自分たちにもキセキを起こせると信じるようになった。彼女たちの気持ちの変化。
天気がまるでAqoursのために虹をかける。

 

大会の会場からその場所まで諦めずに走ってきたからこそ、虹を見れた、説明会に間に合う
=監督の言う、気持ちがかたちとなって現実を超える瞬間

→キセキの象徴としての虹

君ここの舞台な一貫して9色メンバーカラーの虹
つまりキセキには9色あればこそ。

雨が虹を生む。
雨の音=1人1人のメンバー
メンバーの集合体=Aqours=曲
虹は7色だがこれはニュートンがドレミファソラシに対応させて決めた。
曲=ドレミファソラシの集まり=虹
この辺は少しこじつけ……

 

君ここのPVでは晴れたときに虹はかからない。
物語が動き出しているからこそ、虹がかかる?

 

この曲のアニメ上の扱いとして、
千歌の輝いている今の自分の気持ちを歌詞にしたもの
「夢にめざめたばかりの自分」

 

 

 

大会か学校か、どちらかなんて選べない、どっちも叶えたい
だから行く 諦めず 心が輝くほうへ

 

3話最大のテーマは学校と大会、自分たちを育ててくれた場所と自分たちが輝ける場所
この大事な2つどちらを選ぶのかということ。
アンサーはどっちか選べと言われても、どちらも選ぶという選択。諦めないこと。

そのために9人が1つであることの大切さを学び、
そのうえで千歌が諦めなければキセキを起こせるという。

 


輝きたいという欲求
諦めなければキセキは起こせるということ、
そのためには9人が必要ということ

 

(9人の必要性は重大なことだが千歌からは直接言及がない。
→それを言葉にしたのは鞠莉と果南。重要なことを千歌以外が口にすることから分かる、9人いることの重要性の一端?)

あのとき私が見たもの

先日、遂にAqours 1st Live Day2のBlu-rayを観た。
なんとなく、買ってすぐ見れなくて、でもこのタイミングで観てしまったので、
2nd Live Tour ファイナルの大きすぎるインパクトと共に脳内が洪水状態になってしまっている。

ファンとしての私にとっても、やはり1stの衝撃なしに今の自分は有り得ない。
だからこそ、まず、自分のブログで最初の記事でもあるDay2の「想いよひとつになれ」を観て思ったことをそのまま書いてみたい。

 


・ステージに見えた大きな隔たり

私が今回映像で「想いよひとつになれ」を観てある意味一番驚いたのが、階段の段数の少なさだった。
あの日現地にいた私には、ピアノを弾くために逢田さんが登った階段が、とても長くて高いものとして記憶されていた。しかし実際改めて観ると10段に満たない程度の長さでしかなかったのだ。

それでも私は確かに、階段の上と下との間に存在する境界を見ていた。
あのとき、逢田さんがピアノへと続く階段を登ったあの時間は、一瞬のようでいて、しかしとても長く感じた。それはあのステージで演奏をするまで彼女が登ってきた努力の追体験のようで、メンバーの中で1人ピアノに向かってきた故に現れた道にも思えた。
それはAqours加入前に梨子ちゃんがずっと歩んできたであろう道の姿にも似ていた。

ともかく、その光景は同じステージにいながら、まるでアニメの物語のように、逢田さんと他のメンバーが遠い別の場所にいるかのような印象を私に与えた。


そして始まる伊波さんのソロ、もしかしたらあのときの私には、その歌は遠く言葉の届かない場所にいる逢田さんを想った伊波さんの祈りに聴こえていたかもしれない。
届くか届かないか分からない、しかし強い想いが篭っているような響きだった。


しかしその直後、演奏が止まると、ステージの上へ駆け出す伊波さんをはじめとするメンバーの姿により、その境界は簡単に崩れ去った。

 

 

 

 

 

 

・あのとき私が見たもの

境界の無くなったステージで起きてることは、言い得ぬ現実性を帯びて私の目に映っていた気がする。
アニメと重ねて見ていた光景は、いつの間にか現実だけのものになっていた。
もう陳腐になるくらい言われたことかもしれないが、やはり私もあのときこれから起こる「物語」を信じていた。願っていた。


逢田さん以外のメンバーが自分の場所に戻ったあとのステージには、最初のときのような境界は依然消えたままだったような記憶がある。
ただ、やっぱり階段は高く長かったものだったし、遠い距離があるように思えた。

それでもメンバーが言葉に乗せたものは、もう祈りではなく、伝えたいメッセージとして確かに響いていた。
本来なら触れなれない遠い距離を越えて、想いを届けるために、1人1人が全力で手を伸ばし、逢田さんを掴もうとする歌とダンスがそこにはあった。
届け、届け、と叫んでいるようだった。


私はソリストは本質的に孤独な存在だと思っている。9人の音楽を、その瞬間だけは1人で奏でる責任が重くのしかかる。助けは物理的には存在し得ない。
仲間が自分に意識を集中させているだろうことは何となく伝わるが、目が合うことは決してない。ときに声が聴こえる。でも全てを聴くことはできない。
ソロを奏でるとき、その役目を担えるのは当然だが自分自身だけなのである。

それ故に全ての神経をそこに集中させる人も少なくないと思う。私も例に漏れず、演奏に瞬間し過ぎるせいか、本番でソロを演奏したときの記憶はほとんど曖昧だ。
指揮者のどこを見ていかも憶えていないし、どう吹いたかも思い出せないし、何を考えていたのかも定かではない。
周りの世界なんてほとんど知覚できていない。


あのときピアノを演奏する逢田さんの集中力は凄まじいものだったように思える。見るからに普通じゃない空気を放っていた。
大抵ああいうときはイヤモニの音を無意識の力で拾うのが精一杯だろう。
逢田さんは2回目の演奏について「ほとんど記憶がない」と言っている。

 

なので事実は分からない。
でも、私にはステージの1階と2階という届かない遠い遠い距離を越えて、メンバーが歌の端からダンスの指先から飛ばした想いが、確かに逢田さんへ届いているようだった。

 


想いが現実を超えて、物語の景色をつくった瞬間。それこそあのとき私が見たものである。

 

 

「梨子ちゃんが弾いてくれた」と、逢田さん。
それは逢田さんが必死にピアノを練習してその実力を身につけたから、生まれた感覚なのだろう。
でも、もしかしたら、あのギリギリの状態でコントロールできない要素をいつもの優しさでそっとサポートしてくれたのは、皆の想いの力でステージに立った10人目のアイドルの姿だったのかもしれない。

だから、ラブライブ!サンシャイン!!

Aqoursと夢

 

 

 

あなたは夢を持ったときのこと、覚えているだろうか?

 

 

 

 

 

 

作品にいろんな感想を持つのは、持つだけなら、それは個人の自由だ。

でも、人と夢の関係を、なんとなく忘れてしまっている人が多いのではないかと思った。

そんなことを思いつつの私なりの意見である。

 

 

 

・人が夢を持つとき

 

私は常々ラブライブ!において「夢」がキーワードだと思っている。

そしておおよそ現実問題として、人が夢を持つパターンは2つあると考えている。

 

1つ目は、自分が先陣を切って歩いている道の先に、何かが見えたとき

そしてもう1つは、誰かの姿に憧れたその瞬間である。

 

始めに断っておくが、この2つ優劣をつけるつもりは全くない。

どちらにも、もう一方にない難しさや葛藤がある。どちらの物語がその人にどれくらい刺さるかなんて、個性でしかない。

 

 

ただ、私は絶対数の問題として、人は後者の在り方で夢を持つ場合が多いのではないかと思っている。

 

思い出していて欲しい、幼い頃のぼんやりとした記憶でもいい。

あなたが夢を持った瞬間も、目に映る何かに強く心を奪われたからではなかっただろうか。

 

 

 

 

 

ラブライブ!サンシャイン!!という作品

 

この作品に私が思う強さとは、人の夢に正面からぶつかっていく姿勢だ。

作品と現実がリンクするこのコンテンツにおいて、今の方向がいかに正しいか個人的に考えていることを書いていきたい。

 

さて、私も常日頃、μ’sとの関係について沢山の意見を目にする。

最たるものはやはりμ’sを現実にも作品にも出しておきながら、その扱いが中途半端だ、というものである。この中途半端という言葉にもたくさんのニュアンスがあるだろうし、この場で具体的な反論をしても何一つ意味がない。

 

なので、ひとまず今の在り方を何故肯定的に捉えるべきなのかに触れる。

 

まず、そもそもμ’sの存在を持ち込むべきだったのかということから考えていきたい。

これについて私は100%持ち込むべきだったと主張している。

 

理由として第一に、現実と作品のリンクだ。

「夢」がキーワードたるこのコンテンツで、私は夢への動機がキャストとキャラクターで合致することこそ作品の心臓になるとみている。単純に活動への根源的欲求が一致しているのは無条件で強い説得力に繋がる。

これを前提にキャストの環境を考えると、まずラブライブ!というコンテンツに参加しようとするにあたり、当然だがμ’sを知らなかった者はいない。そして、先駆者の辿り着いた姿を見たからこそ、それに憧れ、その道を選んだのだろう。

彼女たちの夢は間違いなく、誰かの姿に憧れて抱いたものだった。

 

そして第二に、ラブライブ!という地続きを考えたときだ。

劇場版の「みんなの、スクールアイドルの、すばらしさを、これからも続いていく輝きを、多くの人に届けたい」という台詞。その前にある「これからもラブライブは広がっていく」という言葉もあいまって、未来の可能性に向けたエンディングだったと私は感じた。

μ’sという存在を除外するのは即ち、先駆者が未来を想い自らの物語に幕を閉じた世界を消すことである。プロジェクトが共に行き着いたスクールアイドルの重大な答えを抹消することに等しい。

確かに全く新しい世界で全く新たなスクールアイドルの概念を提示するという道もあっただろう。だが、それこそ初代のエッセンスと正面から対立しかねないと思う。

同じ答えを別の方法で提示しても、前提を同じ開拓者という立ち位置にする以上、違うルートで同じ答えに至るリメイクに過ぎない。

 

 

これらの理由により、私はサンシャイン!!が真にラブライブという名を冠して独立した作品になるには、作中に先代の姿があるべきだったと考えている。

そしてそれを踏まえると、Aqoursが「追いかける者の物語」になるのは必然だったのではないだろうか。即ち、現実でも作中でも先駆者の姿があってこそなのだから、夢へのアプローチは「誰かの姿への憧れ」以外ありえなかった。

 

そして憧れから出発をすると、その夢、本作の場合は「μ’sのようになりたい」と、どう向き合うかが重要な問題になってくる。肝は“のように”である。

つまり夢の本質は、μ’sになることではなく、自分たちはどうすれば強い輝きを放つスクールアイドルになれるかであった。あくまでμ’sは代表例に近い存在といえる。

でも、現実として自分の夢のきっかけは、いつまでもヒーローだ。

それ故、世の中の夢を追う人は自分自身になるために、常に戦っているのだと思う。

この問題に正面からぶつかっていった1期のAqoursは、物語終盤で遂に進むべき道を見出した。もしかしたらこの後、自分であるための大きな戦いが待っているかもしれない。

 

 

 

 

・点か線か

 

サンシャイン!!アニメ本編でμ'sの扱い、解釈について、どうあるべきかという議論もある。

主に2パターンあって、

1つはスタッフがμ'sの活動をほぼ網羅している以上、線として活動を解釈しより正しく登場させるべき、という立場

2つは千歌ちゃんたちがμ'sの活動を雑誌等で通して容易に知ることの出来る、点としての要素のピックアップで良い、という立場

だと私は考えている。

個人的には後者の立場で、物語上ある程度は無茶できるとしても、あまりに線で捉えられていたら、その知識はどこから仕入れたものかと疑問に思うし、それほど盤石な解釈をみせるならそれはμ'sの物語に片足突っ込むことになるように感じる。これは主観でしかないが。

ただ私個人がそもそも当時μ'sについてアニメと映画本編を一度見た程度の知識しかなかったこともあってか、作中での扱いや解釈については正直全く違和感はなかったことは述べてく。そういう意味ではリアルさもあったし、Aqoursから本格参入した身としてはちゃんとAqoursの物語に集中できた。

 

作品解釈の正解不正解について議論はあるだろうが、

点での引用でありつつ、ちゃんとエッセンスを抽出できていたのではないかと思う。

ややアクロバットな根拠だが、

線と点の対立は概ねサンシャイン!!が無印を正しく引用できたかどうかによるという前提で、

つまりまず作品解釈については、答えがあるという共通意識があるはずだ。

そして、作品の答えは作者に帰属する以外はありえない。受け手が決めていいなら答えは無限に存在するし、最悪そう結論付けても許されることになる。

我々は作品の答えについて、作り手から見出そうとするしかない。

今回の場合は、無印とサンシャイン!!の作り手が全く同じでないからこそ問題が複雑である。ただ、サンシャイン!!における無印の正解はサンシャイン!!にしかない。

そして前任者がプロジェクトを去った以上、現スタッフの解釈を正解としない限り、受け手の解釈が1つなるなんて有りえないので、答えが不在になってしまうという問題もある。

また、それでも、解釈が無印の制作者のそれと異なるというのであれば、その言葉が自分にも返ってくることを忘れてはならない。

 

 

 

 

・引用の手段は正しかったのか

 

つまりサンシャイン!!で伝えたかったことを表現するために引用されたμ'sの姿は適切だったのかという問題だ。言い換えれば、本編メッセージを表現するのに例えばμ's各メンバーをあのように表現するべきだったのかという話である。

だが、これは最初からあってないような問題である。

というのも作品において伝え方もまた一つのメッセージだからだ。

私の領域での例えで恐縮だが、例えば人の喜びや悲しみは、古今東西様々な音楽で表現されてきた。しかし、1つとして同じ表現は存在していない。

喜びを表現するのであれば、ベートーヴェンの第九から歓喜のテーマを流用すれば、クラシックの人間なら的確にその意図を把握するだろう。だが、そんなことをする作曲家は存在せず、歴代の偉人たちは必死に自身の喜びを伝えるテーマを考えてきた。

それはとても簡単なことだ。この世において人の喜びもまた、1つとして同じものは存在しないのだ。別々の人生を歩んできた人たちが、同じものに対して感動したとして、全く均質な感情の動きをするなんてありえない。

自分自身の言葉でその感情を語る必要がある。

そう考えれば、その表現自体が、伝えたいことに対して重要な意味を持っていることが分かる。

 

ちなみに世の中には「~主題による変奏曲」というクラシック音楽作品が存在する。

こういった作品は過去の有名作品の1フレーズなりをとってきて、元の曲で与えられた意味から離して、自身の作品内であれこれ料理するといったものだ。

このジャンルであっても、今なお演奏されている曲も多く、芸術的価値が高いとされている作品がある。

結局我々が考えるべきなのは、その作品自体なのだ。作品そのものの狙い、引用の意図を考えるのに、引用されたもの本来の要素が役に立つときもある。でもそれだけだ。

引用の仕方の正解は、その作品の中にしかない。材料本来の解釈は、その作品の評価に何の意味も及ぼさない。それは引用された作品の話である。

もしその表現の意図を、その正解を受け入れられなかったら、それは作品の優劣ではなく、残念ながらその人の好みでしかない。

 

好みの話題に付随すると、より多くの人に受け入れられれば受け入れられるほど優れた作品なのかという問題がある。

これは全くのナンセンスであり、誰にでも伝わる1+1=2は残念ながら表現ではなく、ただの記号化されたロジックに過ぎない。

そもそもラブライブ!は大多数に受け入れられる存在を目指すより前に、まず「自分たちらしくあること」の重要性が説かれた作品ではなかったか。

 

 

 

 

 

・現実と物語の具体的なリンク

 

そもそもこの問題もどこまでが無視される前提なのか、なかなか決め難い。結局個人の趣味の範疇による。

例えば、時間の有限性はリンクしていても、キャストは女子高生じゃないからリンクしないとか言い始めたらコンテンツのある種崩壊だ。

私は環境の重大な要素にこそ重なる部分があるべきだと考えている。前述の杜撰な例だと、スクールアイドルをスクールアイドル足らしめる要素とは、「女子高生」ではなく「時間の有限性」だ。

 

この発想に基づくと、Aqoursの現実と物語の合致は、夢への道筋によく表れている。

 

まず、前述のとおり、根源的な夢への同期がリンクしている。これについては前述の通りだ。

そしてキャストのメルパルクホールでの初公演。憧れからスタートし、不安と期待の入り混じった本番、世間にμ’sを知っている者が多いからこそ、自分たちがまだ何も見せられていない時点で席が埋まるか本人たちも不安だったのかもしれない。

逆に、μ’sを知っている者が多いからこそ席が埋まった本番でもあった。

偉大な先駆者ありきの初ステージ、まさにアニメの体育館講演である。

 

アニメ1期放送期間付近のキャストの姿を思い返すと、アニメで動くキャラクターを見て、演技や自身のライブパフォーマンスにそれまで以上に悩んでいた印象がある。

そして高槻かなこさんの「みんなと比べなくてもいいんだ」「私は私でいいんだ」という自身の演技への思いの変化、そして自分なりに国木田花丸を研究しそれを正解にしていく姿から象徴されるように(といってもこれは私が高槻さん推しなのでこのエピソードを代表例にしてしまっているだけなのだが)、まさに他者の影を越えて、「自分自身になる」重要な期間であった。

それはμ’sのようになるには、夢を叶えるには、なりたい姿になるにはどうしたらいいのか、必死に考えていた作品中でのAqoursの姿に重なる。

目標に至るために、現実でも作品でも、他者との関係と自分自身の在り方という大きな壁に悩んでいた。

 

 

その成果はご存知1st Liveで存分に披露された。各キャストが各キャラクターとして挑んだ大舞台では、ああこのキャラクターならこういうダンスの動き、こういう歌い方をするな、と納得できる説得力があった。

あの日を境に、世間におけるAqoursが“相対”から“絶対”になったように思える。

これもまた高槻さんの言葉だが「『これがAqoursだ!』っていうものを示せた時間になったな、と思います」というインタビューをみてそんな実感を確信したことを覚えている。

 

アニメでも最終話でのライブは、自分たちを唯一の存在として認識し、自分たちだけの道を歩み始めた姿が描かれた。

「追いかける者」の物語は、多くの悩みを越えて「自分自身」になれたとき、ようやく幕を開ける。本当の意味で自分自身の未知なる世界が拓ける。

そういう意味で『MIRAI TICKET』という曲はまさにそれに即していた。

≪みんな みんな 迷いながら ここへ辿り着いたね これからだよ≫

≪あこがれ抱きしめて 次へ進むんだ≫

という歌詞にAqoursと夢の関係がよく表れているなと感じている。

 

「0 to 1」というテーマのもと、始まりの終わりで、現実も作品も「Aqours自身」になったのではないだろうか。

 

 

 

 

 

☆更にラブライブ!サンシャイン!!

 

 

 

・この物語は是か非か

 

ナンセンスな問いである。サンシャイン!!は「追う者」としての物語を正面から歩んでいる。意欲的かつ都合主義でもなく、なおかつ変化球ではない。

先代と比べて人を選ぶようになったという意見もあるが、反面私のようにここから強くラブライブ!に入り込んだ人間もいる。

より多くの人に伝わるべき?それは作品から論理を取っ払うか、火は熱いとだけ言うようにすればよい。虚しいこと限りない。

無印劇場版は特に素晴らしい作品であった。でもあの作品の本質はアニメ本編への一定の理解があってこそ伝わるように感じる。リテラシーという点では大いに人を選んでいるのではないか。でも、だからこそメッセージが重いのだ。

 

 

 

 

μ’sAqoursどちらが優れたコンテンツか

 

ナンセンスな問いである。クラシック奏者の私から言わせてみれば大真面目に世界史上最も優れた音楽家を決めるようなものだ。それぞれにそれぞれの意義がある。

どういった視点に重きを置くかで結論は変わるうえに、総合的に考えるなんてことがそもそも不可能だ。1つ1つの価値観の優劣さえ決められないのに、何故包括的な視野で判断ができるのか。

 

 

 

 

ラブライブ!とは

 

サンシャイン!!はラブライブ!の名前を冠していながら、ラブライブ!を誤用しているといった意見もある。

残念ながら事実はその逆だ。公式が今なお引き継いだ要素こそラブライブ!のエッセンスである。つまり、そういった意見を述べる人こそラブライブ!を誤用している可能性が高い。

繰り返しになるが、作品の根幹、共有されるべき正解は作り手にしかない。プロジェクトで共有され続けるモノこそがラブライブ!である。

 

 

 

 

 

・プロ意識という言葉

 

先日Twitter上でフォロワーの方が、プロ意識とはそもそもなんだ、というような投げかけをされていた。

私はプロ意識について「その道で生きていく覚悟」だと考えている。

この1つ前の記事で延々と書いたのだが、私は先日一介のアマチュア音楽家でありながら、プロオーケストラに参加させていただいた。

そこで私が身をもって理解したのは圧倒的なまでの意識の差であった。アマチュアからみたら、そこまでやるのか、ということをさも当然のごとくやっていた。

私にとっての特別は、プロにとって当たり前なのだとようやく理解した。

それこそが技術といった誰でもわかる表面的な差に、それも埋まることのないものとして、現実になっている。

明日さえも分からないときがある、芸能の世界で生きていく人たちは、言葉の通りそこに人生を懸けていた。それを可能にする能力と、それを支える意識があった。存在こそ知っていたつもりだったが、その熱量は恐ろしいものだった。

 

なんとなく、私が受ける印象だが、逢田さんのプロ意識はその点で凄まじい熱量を感じている。

1stでのピアノについてはブログの最初の記事にも触れたように、楽器を長年やっている身として本当に異常としかいえないレベルだった。パフォーマンスだけじゃない、そこまでの技術とそこに至る積み重ねとその根底の意識がだ。

初めて『君のこころは輝いてるかい?』を披露したときの逢田さんの歌を聴いたとき、特段私は感想を抱かなかった。

でも最近はどうだろうか。ライブでも音程やテンポの安定感はあるし、特に2nd Live 神戸公演Guilty Kissで入りにミスがあったとき自然すぎる復帰の仕方には目を見張るものがあった。落ちたところに戻ろうとすると特に最初の一音はリズムがぶれやすく、次の二音目が短くなるか、長くなるか、そもそもリズム自体が前に転ぶか遅れてしまうかになる場合が普通だ。

しかしそこに違和感なく戻るテンポ感は生まれ持った能力と、なによりそれができるようになるまで研鑽する姿を想起した。

『Landing action Yeah!!』のSolo ver.では冒頭のリズムと強拍の難易度が高いメロディを見事に歌っていた。メンバートップクラスの技術である。

音楽は練習してないことができるようになるほど甘くない。最初の印象を踏まえると、現在の水準は驚くべきことである。

8/29のインスタグラム投稿も読み手を惹きつけるものであった。

これほどまでの現在のレベルに「きっとこんなんじゃ終わらない」と言う意識。

我々アマチュアであれば、到達さえ難しく、故に手放しに喜びそうな成長に対して「こんなんじゃ終わらない」という言葉が出てくるのは、やはりその世界で生きていく人たち特有の意識に思える。

 

これも、なんとなくなのだが、逢田さんは2ndでのミスについてとんでもなく悔しく思っているのではないかという気がした。歌もダンスもどんどん成長しているのに、貪欲すぎる言葉を発する意識の持ち主が、あれらのことを是としているようには到底思えないのだ。

それでも、彼女はアイドルだからこそ、ミスに対してステージではそういった気持ちをみせずに笑う。そんな可能性を思う。きっとアイドルにとってそのときベストな選択を彼女はしたように感じている。

 

私でさえ本番のミスは頭にこびりつく。だから次は絶対にそれを越えてやろうと思う。

そのためにひたすら練習を積む。

舞台に立つ者にとってミスは本当に重い。完璧にやり遂げる難しさは嫌というほど分かっていても、許されないと、プロにとってはあり得ないとまで思う。音楽の専門でもダンスの専門でもない彼女たちは、それでもミスを越えるために、自分たちの本当のパフォーマンスのために、今日も戦っているかもしれない。

 

 

・私が見た理想郷

 

2nd Liveで2期のPVが発表された。

千歌ちゃんが「私たちは輝ける。頑張れば絶対って、そう感じたんだ。」そう言っていた。

私はこの言葉をずっと忘れないと思う。

我々は挫折を経て、頑張っても必ずそれが報われるとは限らないと学ぶ。それが真理だ。他の人も頑張っているのだからそれは当然なんだと思う。

千歌ちゃんだってそうだ。1期で頑張ったのに輝けなかった、という経験をした。

それでも、頑張れば絶対に輝けると力強く、そう言った。

青春という限られた時間、彼女たちは頑張れば絶対に何者かになれると知っている。

頑張り続けた先に、輝きがあると知っている。

きっとそこは様々な壁があることを理解しつつも、諦めず果敢に進んでいった先にある、特別な輝きなのだろう。

それはあのとき、私たちが心のどこかで願っていた夢なのかもしれない。