パラボラアンテナ

Aqous中心のブログっぽいなにか

Aqours 素晴らしき2期の楽曲

遂にWATER BLUE NEW WORLDとWONDERFUL STORISESのCDが発売されました。

サンシャイン!!2期を彩った曲たちが全てFull解禁となったということで、
浅く、薄い、私の感想をつらつらと書いていこうかと思います。
ざーーーーっと書いたので要検討事項もあればどこか修正するかもしれないのですが許してください!!
 
あと最大の注意事項ですが、私は死ぬほど音痴です。音高に関わる情報はそんなに期待しないくださいね!(正気か???
 
個人が思った「感想」なので、基本的に以上でも以下でもありません。
オタクの戯言にどうかお付き合いくださいませ。
 
 
 
 
 
冒頭が凄い。
オープニングの頭ということで青ジャンと同様に、しかしタイプの違う印象的な幕開けになっています。
光が広がるようにどこか荘厳だけど、キャッチーさは失われない…そんな作りです。
まず耳に入るのはウインドチャイム、これに合わせてシンセの音も上昇していきます。これがオープニングの映像と合わさって光が広がるイメージになっているのでしょう。
さらにその後、メロディに合わせてグロッケンとヴァイオリンが重ねられ、これが上品な煌びやかさに繋がっていますが、グロッケンからヴァイオリンへと音の主体が移っています。音量のピークがアタックの瞬間になる鍵盤楽器から、ピークを持続させられる弦楽器に変わることで、高音楽器の音色による光のイメージをそのままに効果が強まっています。点が線に、という感じでしょうか。力点ではチューブラベルが入り荘厳さも醸し出されます。
また、この曲は決まった音程を段階的に踏むのではなく、シームレスに上昇する電子音が何度も使われているのが特徴です。まるで我々のテンションの動きであったり、近未来的な印象を与えたりと独特の効果を感じます。(オンド・マルトノみたい)
伝わらない話ダメ絶対(暇な人はググってください
生ではないかと思われますがブラスの音もバッキングとして音楽を締めていますね。
あと楽器とボーカルの重ね方も面白くて、インストがボーカルラインをなぞるときは基本的にフレーズ終わりで、次々と曲の山場を生み出しています。
最後のサビは今までになく沢山の音が重ねられてわけわからないことになっていて、最高にテンションがアガりますね(語彙力)。ここまでやってボーカルを殺さず、音も濁らないのわりと意味がわかりません。
(ちなみに私的には2:52あたりで聴こえる高い回転音みたいは電子音と3:29で聴こえる青ジャンのときの信号音がエモポイントです)
 
 
 
 
めっちゃ好きです
Twitterでもわりと語ったので重複します。
最初から個人的なエモポイントを言うとやっぱりAメロ後半に入るテンプルブロックですね。
クラシックの現代音楽だとわりと聴くあれです。ドラムセットだとジャズ黎明期に録音環境の都合で使われたらしいですね。今はたまに攻めた感じのバンドとかが使ってるだとか(この辺私より詳しい人わんさかいそう)。
サビの「負けないで」の後のストリングス、中音域がニクいですね。この曲は比較的インストが薄いところも多いので、このストリングス隊の中低音がところどころで音に穏やかな深みを生んでいます。
さて、この曲の魅力は個人的にはドラムだと思っています。「夢は消えない」のところでやってる2拍3連(なまってる?付点8分×2+8分?)の動きが奇数的なリズムとして非常に強い印象を与えています。
私の趣味で言うと4分音符の強拍が続く部分が多く、まるでマーチのように前へ前へと進んでいく印象です。歌詞の「何度だって追いかけようよ」という言葉と合わさり、Aqoursの力強さがよく表れていると思っています。
「こころが求める〜」のパートでは冒頭のピアノが一瞬顔を出すのも素敵です。
 
 
 
3.MY舞☆TONIGHT
 
実質箏と尺八の二重協奏曲
冒頭の打楽器も羯鼓、ウインドチャイムも狭い音域で往復することで神楽鈴をイメージしたような鳴らし方になっています。更にその後グロッケンとコントラバスが加わることでまさに和洋折衷な音を生み出します。
Aメロ裏ではハープが8分音符で動きながらそこに装飾として箏が入ること(箏だけに)で日本とヨーロッパの琴が組み合わさってますね。
EFFYさんはピアノをイメージしながら箏の譜面を書いたのでしょうか。そんな印象を受けます。
また、サビは所謂三三七拍子になっており、これは「さくらさくら」や「靴が鳴る」といった民謡や童謡でみられるリズムで、メロディそのものも日本的な要素が意識されているといえます。
アニメでは1年生と3年生の関係がクローズアップされましたが、和と洋は花丸と善子、鞠莉さんとダイヤさん的でもあり、
ひいてはこの話のテーマであろう9人でいること、1人1人違うメンバーだから奏でられるメロディ、物語があるということ、を感じています。
個人的なエモポイントは落ちサビ前とその後サビワンフレーズ終わってから入るギターのグリッサンドです。The鞠莉さん。
 
 
 
4.MIRACLE WAVE
 
緊張と爆発の曲です。
ダンスの要素ありきの作品のためか曲の作りが他のものとは違う印象を受けます。
まず冒頭のギターの不協和音。これが最初の緊張です。
不協和音というと悪いイメージを持っている方も多いかと思いますが、これもまた特殊な響きを持つ1つの和音です。
必ずしもこれは不快感を生むのではなく、神秘的な響き、緊張感、不安定さ、様々な働きをします。
今回の場合はアップテンポなビートに突如不協和音が長い音価で現れることで、
曲に対して聴き手を引き付ける他に、そこにストレスがかかります。
重いものを押してそこにストレスかけて、最大摩擦力を超えその物が動いたとき、普通に動かしたときより達成感ありませんか?そんな感じですね(伝わらない
或いは息をしばらく止めたあとの呼吸でしょうか。独特の開放感がありますね。
そして、この爆発の後からメロディが始まる作りになっています。
 
さてこの曲の最大の特徴は1番のサビ前でしょう。
音価が長くなり、一気に音量が抑えられ、聴き手神経は緊張感を持って音なきソリストに向けられます。
まるでそれは波の先導です。静かな水面に風が吹き波が生まれます。
そして、風の終わりにギターが祝福の鐘を鳴らします。成功への祝福だけではなく、貴女が選んだその道は正しい、と告げる正解音のようでもあります。この音を踏まえて曲はサビに入り、そういう意味では未来へ繋がる音かもしれません。
曲においてインストは、メロディと一体になって、その曲の背景や顔を作るのですが、
この部分に関しては、ソリストである千歌ちゃんに対して音が客体的に働くという、ある種線を一つ引いたような関係になっているのが個人的にとても面白いと思っています。
そういえば冒頭といいギターが重要な役目を果たしている曲ですね。また、この曲は他の曲と比べても高音域のシンセが重ねられていて、基本的に聴き手を常にハイテンションに保つ音作りがされています。
何度か全パートが休符になるところもあり、これもまた音が途切れることで、曲に緊張と爆発を生んでいると思われます。
 
 
 
5.Awaken the power
 
ドラムの音色が面白い曲という印象です。
この音は皮のヘッドを用いて、緩めに張ればいいんでしょうか?強く深い音にしつつも、鳴りすぎない響きです。
2番では1番になかったパートが挿入されています。この構成はSaint Snowの得意技ですね。
ラストにはシンセでオルガンのような音が入ったり、おそらくティンパニと思われる音が入っています。4:25あたりのロールも良い仕事をしてますね。導入部はストリングスを使ったりすることで、ラストと同様にシンフォニックな雰囲気を出しています。「がんばるって」からのパートのシンセはブラスっぽくて好きです。
この曲は他の特徴としては、サビとかで顕著なのですが、メロディをなぞらないパートが短い単位で執拗に反復した動きをしています。ドラムやギターも短いパターンを複数セットやってる場面が多いです。
まぁこんなめんどくさいこと言わなくても冒頭部分のストリングスを聴いてのとおりですね()
ともかく、この反復こそが我々に一定のビート感とノリを与えて、ライブに向いた曲という印象になるのかもしれません。
 
 
 
6.WATER BLUE NEW WORLD
 
冒頭は宇宙でしょうか。
ピアノがメロディを奏でるなか、
裏拍から中音域の電子音の鼓動、
サスシンをきっかけにビート感がアップします。
テンションを抑圧して期待を溜めるようなビートの粒と、新たな目覚めの胎動の印象を受ける高音のシグナルが印象的です。
また、ここからストリングスのベースが入ります。この曲において倉内さんはバンド楽器が鳴っている様々なシーンにストリングスで大きな背景を作り、作品の世界観をより強固にするシンフォニックな厚みを生んでいます。
サスシン前の中音域電子音とサスシン後の高音域電子音は、音の最後があえてガサつく音色にすることで、映画のようなドラマチックな音になっています。私はここに宇宙にいるようなイメージを持ちました。
この後はギターやドラムが入り、バンド楽器が前面に出てきます。このパートの直前のヴァイオリンのトレモロが絶妙ですね。
ここからハンドベルのような高い金属的な音が入ってくるのですが、エフェクトがかけられているようで、輪郭のある星とその周りの光のようなカタチになっています。
「ずっとここにいたいと」からのパートでは、非常に特徴的な広がりのある音が入ります。これについては佐伯さんご本人が加工したサイン波(シンセ)というお話をされていました。
まるでこの音色はヴィブラフォンを柔らかいマレットで叩いたような美しい音で、
アタックは最初の音が1番強く、その後は徐々にぼやけて音自体も曲に溶けていき、まるで水紋を見ているかの如くです。同時にパンフルートのような、高地を彷彿とさせる音色でもあります。
このパートは後半からドラムがライドシンバルが前面に出てくることで、サビに向けた浮遊感が生まれます。
更にそこからクラッシュシンバルへと変わり小さな爆発を繰り返しつつ、一瞬の静止を挟みサビへと入ります。
サビ前の特徴として、ギターが力強く引っ張りながらも、それに絡み間を速いパッセージで動くストリングスが次へのダイブ感に繋がっている印象です。
サビ転調前はバンド楽器にピアノとストリングスが使われています。ピアノでメロディに厚みを与えつつ装飾し、ギターとストリングスはフレーズを長くとる動きで(たまに他の動きもしてますが)サビの壮大さを生んでいます。
そこから高音の電子音が光の粒のように上昇し、そして転調します。その後は光の線のような高音の電子音と、転調前より主張するピアノ、グロッケンのような鍵盤音も加わり、更に高音部のシンセが重ねられることで、
転調で音を上げるよりも、より一層強い輝きのイメージに繋がっています。
2番は1番に比べインストはよりクラシカルでメロディアスなイメージでしょうか。アニメの映像もあって神秘的な黒の背景に、様々な光が点灯したり駆けていくイメージなのですが、この基本的な色彩感を失わずに1番と違った作りにするために、インストの旋律性を用いて異なる響きにしているのかもしれません。
具体的にはピアノが1番では和音を他のパートと一緒に厚くするような動きだったのに対して、2番ではオブリガードのような動きやメロディをなぞるハモりの動きをして、明確な旋律の顔として現れます。光が流れていくような「どこへ向かうの?」の後に入る電子音の下降系も面白いですね。
「ずっとここにいたいね」のパートは2番ではヴァイオリンの4分音符の刻みが加わり、躍動的ですね。今度のサビは空白なしで、電子音の上昇と共に入ります。
そして2サビからの間奏への突入が凄い。
1サビで同様の動きを見せていたことからコードが解決(専門外なので違ったらごめんなさい)へと向かうと見せかけ、突如別の世界に入ります。
同じ景色を進んでいたら急に視界が変わり、新たな世界へと入った瞬間を意識させられます。それは例えば雲の中を進んでいたら、急にそこを抜けて青空が現れたような、そんな驚きがここにはあります。2番であえて基本的な色のイメージをキープしたのは、この瞬間の大胆な変化のためにも思えます。
楽器自体もあれほど沢山の音が重ねられていたところから、透明な壁でない壁を突き抜けたような低い破裂音と尾を引くような美しいウインドチャイムの中から、
ピアノと今まで使われていない音色のギター、そしてアーティキュレーションが非常に丁寧に作られたストリングスが現れます。白くて澄み渡るような情景が目に浮かびます。
そしてギターのメロディを挟み冒頭のフレーズへと入ります。ギターのパートを挟むことで最初とは逆行して冒頭のパートになるのが面白いですね。
ここでもストリングスの刻みが活躍し、上品に曲の落ちサビ前の盛り上がりを演出し、バスドラムも入ることで心の芯にも響いてきます。
最後のサビということで、今までの音に加えてギターが中心的な役割を果たしています。これで力強さを与えることにより、ここに来てサビが更に進化します。
また、落ちサビでは「MY NEW WORLD」だったのが、
1つ音を抜くことで「NEW WORLD」に変わっていますね。これをきっかけにして、最後のサビが今まで以上に音をキメる作りになっています。
というのもそれまでは「MY NEW WORLD」のあと、「新しい」の「あ」の音が2拍目の裏にあり、2拍目の表はドラムのアクセントになっています。なのでドラムとボーカルを合わせてタタンというようなリズムになり、畳み掛けるように曲はスピード感と力点を得ているように聴こえます。
一方、「NEW WORLD」では、ドラムとボーカルが2拍目の表に同時に入ることで、より強いアクセントに変わっています。
それだけではなく、今までは、
3拍目→my
4拍目→new
1拍目→world
2拍目裏→あ
ということで「新しい」のフレーズに入るまでボーカルに0.5拍の時間が空いていましたが、
最後は
3拍目→new
4拍目→world
1拍目→休符
2拍目→あ
となり次のフレーズまで1拍の時間が空き、裏と表が逆転することで、一瞬の緊張感と解放が生まれ聴き手に更なる高揚感を与えています。
そしてそこから疾走感を失わせないのが、この曲の恐ろしいところです。
これまでの音の置き方で落ちサビの方が0.5ほど時間が多く余りました。それを逆手にとっているのです。
「新しい場所」のフレーズは2サビまで、6つの音の粒で構成されました。
しかし、落ちサビでは1つ音を増やして8分を連続させた7つの粒にしているのです。これにより手数が増えて、曲の疾走感は今までと比べても落ちることがなくラストへ進みます。最大の見せ場を何度も超えてくるのがこの曲なのでしょう。
締めはストリングスとピアノによる終止。最後の1音がこの壮大な曲に美しく幕を引きます。
 

さて、この曲は梨子ちゃんの文脈でもいろいろ考えられますね。
ユメノトビラと同じ、
ピアノ伴奏中心のスローな導入→ギターのメロディー→バンド楽器中心のBメロ→Cメロが転調を伴い→サビへ
という似た構成になっていてます。
彼女が初めて聴いたスクールアイドルの輝き、全てのきっかけであるこの曲は、
やはりスクールアイドルに全てをぶつけんとする彼女にとって特別な想いと共に流れていたのではないかと思います。

しかし、彼女の想いは憧れでは終わりません。
ユメノトビラは導入とサビが同じメロディとなっていますが、WATER BLUE NEW WORLDは別のメロディで書かれています。
しかし「想いよひとつになれ」という自身にとって特別な曲が裏に隠れてこの2つのメロディ繋げることで、関係性を生み出しています。
冒頭とサビを同じメロディで繋いだユメノトビラに対して、
別の曲を用いて冒頭とサビの別のメロディを繋いだ梨子ちゃん。
これが、私だ、Aqoursだ、未来のスクールアイドルだ、と言わんばかりの作曲をしているのです。
伝説のスクールアイドルが未来へ繋いだバトンは、新たなヒカリとなって次世代のスクールアイドルの曲へと昇華します。
(メタ的な話というか現実的な話をすると佐伯さんの発想力どうなっているのか……)

 
 
 
8.WONDERFUL STORIES
 
ギターを中心に様々な電子音を使い、
さらにチューブラベルを用いた始まりがEFFYさんらしい曲です。
こういったクラシックなパーカッションが、曲に格式を与えるのに一役買っているのだと思われます。
ピアノが(印象的なグリッサンドを含めて)入ったり、ストリングスも顔を出したり、更にはティンパニが使われていたりと、ややミュージカル的な音作りが意識されているのかもしれません。お馴染みのグロッケンも使われていますね。
「青い鳥」からのパートでは、EFFYさんの曲ではお馴染みの電子音が顔を出します。このパートは2種類のクラップ音や張りを緩めたようなコンサートバスドラムの音が個人的にとても好みです。まだこんな引き出しあっただなんてズルいです。落ちサビ前と締めはハープですね。珍しい気がします。
 
 
 
・調の話を少し
 
Twitterでもよく話していましたが、
WATER BLUE NEW WORLD、は転調前のサビがAs-dur、転調後はA-dur
WONDERFUL STORIESはAs-durで、落ちサビの転調でA-durと
要所要所で''A''qoursの調が使われてきました。
それに対して、
MY舞☆TONIGHT、はD-dur(サビ)
MIRACLE WAVE、はEs-durと
なっており、これはそれぞれAs-durとA-durの裏コードなのです。
裏コードって何ぞや、という話は話声に詳しい人にお願いするとして、
その名の通り、全く違うようでありながら、共通点を持つゆえに、その調の代わりを果たすこともできる表裏一体の存在の調といえます。
これらの調の関係は、
D-Es→半音のキー
As-A→半音のキー
D-As→裏コード
Es-A→裏コード
Es-As→属調
E-A→属調
となっています。
WATER BLUE NEW WORLDは
B♭-dur(これはE-durの裏コードですが、2期でライブシーンが披露された君のこころは輝いてるかい、こそがE-durの曲です。μ'sがラブライブ決勝大会の場で最後に歌った僕らは今のなかで、もE-durですね)から始まり、
G-dur(今度はMY舞☆TONIGHTのメロディの調、Des-durの裏コードです。また、G-dur自体は想いよひとつになれのメロディの調です。)を挿み、属調のD-durに移ります。
その後はD→Es→As→Aと徐々にキーをあげつつAqoursの曲をなぞっていますが、各調にはそんな関係がありました。
 
※Awaken the powerのサビの調も非常に興味深いです。
ここではFis-dur(=Ges-dur)が使われていて、これは全く同じなのに2つの呼び方がある調なのです。この異名同音調は、全24の調のうちたった4種類しか存在しません。
2つのグループが1つになった、Saint Aqours Snowの曲だからこそに思えてきますね。
この異名同音調長調だともう1つ、Cis-dur(=Des-dur)という調があるのですが、これはMY舞☆TONIGHTのメロディの調です。この曲は1人1人違った私たちが集まってAqoursになる、という曲でしたね。和と洋、1年生と3年生という対比が1つになる場面でもありました。
 
 
 
 
・全てを聴いて思ったこと
 
というわけでAqoursの2期目の物語に関わった曲について一通り取り留めもなく色々と書いてみました。
(OPとEDには触れてなくてごめんなさい…ここで少しだけ……)
おそらくお気付きの方もいらっしゃるかと思いますが、君の瞳を巡る冒険とMY LIST to you!を含めて、
2期の関係曲は全て1番と2番で「時間の流れが違う」といえると思います。
まず多くの曲で、2番のボーカルラインが変化しています。同じフレーズを重ねる回数が増えたり、メロディの終わりの方が変化したりといったものが見られます。
ではそうでない曲はどうなのか、という話になるのですが、2番のサビ前のボーカルが途切れる部分の長さが長くなったり短くなったりしているのです。
この長さの変更の徹底は何を意味するのか、
ここに明確な答えがあるかは分かりません。
しかし私は、どうしてもサンシャイン!!2期で語られた「かけがえのないイマ」を考えてしまいます。
似ている瞬間はあるかもしれないけど、2度と同じ時間は訪れない。みんなと過ごした日々は進んでしまったらもう戻れない。毎日の練習だって、全部が同じだなんてことは絶対にない。それがミライへ向かうということ。かけがえのないこの瞬間・・・
本来は同じになることが多い1番と2番に流れる時間を変えることで、かけがえのないイマは2度はない、だからこそ大切にしなければならないのだ、Aqoursがそう我々に言っているように感じました。

3話のメモ書き的な

3話についての雑記(?
何かのヒントになれば嬉しいです


物語の雰囲気が変わる抽選会後のシーンから時系列的に追っていきます。


抽選会後

スポットライトからの転換
→13話のそれ
監督が物語を追うことより「彼女たちの心を優先したとき」
あるいは千歌ちゃんにのみ光を当てる(彼女の視点を中心に物語が展開することへの合図?
自ずとそこに注視させる方法


再び手を伸ばす
→2話のそれ
あのときは「何やっても楽しくない、どうしたらいいか分からない」梨子と「輝きを見つけた」千歌


千歌はまず梨子の悩みの助けになりたい。
千歌を信じてみたい梨子、やっぱり諦めたくないという気持ち。
→何をしても楽しくない、けど海に飛び込んだり、環境を変えたり、何かできることを試みてる
2人が諦めずに手を伸ばすから、現実がかたちを変えて、手が届く
梨子はピアノを諦めることなく、スクールアイドルへ。

 

今回は目標が共有されてる。
学校も大会も、どちらかなんて選べない。学校を救いたい、輝きたい。学校があるから輝ける。一方で、学校≠大会のような輝くための場所。
ダイヤの発言として大会は多くの人に見てもらえる場所

 

BGMは「つかめない光」
2人は手をちゃんと伸ばしているが届かない。
届かなくて笑いあう2人。
通じ合ってる2人、つかめない光、大会と学校2つを叶えること。
でも、どちらかしか選べないという前提に立っているから、それは仕方がないこととして認識している?だから届かなくても笑いあえる。
ピアノとアイドルを諦めなかったあのときとは違う。だから届かない?

 

梨子の提案。これは現実的な手段であり、気持ちで世界が変わるシーンにはなり得ない。

 

 

屋根とベランダの位置の差は一体?

終盤の回想、みかん畑ルート案を詰める千歌に梨子が「本当に諦めないね」と言う。
具体的な現状のベストを見つけても、そのうえで更なる理想のベストを追い求める精神。ここが2人の違いという可能性。

 

でもそもそも装置として、千歌は梨子が気づける悩む場所が屋根しかない。
以前梨子のピアノに気づいて手を伸ばしたのは廊下?なので、流石に不自然という考え。

 

 

梨子曰く、私たちにキセキは起こせない。千歌も同意している。
キセキは起こせないから、自分たちにできるところで精一杯頑張るしかない。

 

→後述のキセキの条件と重なるところは大きい。何かを変えたいと、ともかく頑張れば、普通の人でもキセキと呼ばれる結果を残せる。それは自分たちなりにベストを尽くすということ

 

→後述のキセキとは違う。そもそも9人で両方参加するという、理想の目標に向かってがむしゃらに諦めないことが大切。梨子は現実的な範囲で線を引いてしまっている。

 

 

梨子は1話においてどんな認識で「キセキを」と口にした?
1話のキセキと今回梨子が起こせないというキセキは別のモノ?
しかしその起こせないキセキは、最後に千歌の台詞で起こせるモノに変わる。

 

キセキの認識が変わっていってるという単純な可能性


1話→目標としてのキセキ。届かないかもしれないけど追いかけたいもの
3話中盤→手段としてのキセキ。起こしたいけど起こせないもの
3話終盤→結果としてのキセキ。手段が特別じゃなくても諦めなければ、目標が叶い、結果としてそれがキセキと言われる

 

(輝きに近づけば、キセキの姿がみえてきているような印象も少しある。また、類似性として、輝きたい!という欲求も最初からあったが、1期を通してその正体へ進んでいった)

 

 


大会組
→大会の効果に言及した黒澤姉妹(ルビィのコメントは弱め)と2年生

 

次のステージに向けて、と、メンバーに宣言し自信もあるような千歌。
しかし会場に入るとアウェイな空気に自分を含めて皆がのまれて歌い出せない。
千歌はここで自分のミスに気づく。といってもミスを認識する、というより、5人でこれからパフォーマンスすることへの不安。

 


説明会組
→説明会を優先するべきとした鞠莉や果南と花丸、善子

 

「勘違いしないように」
「私たちはやっぱり1つじゃないと」

 

まず前提として、11話は1つのAqoursとして離れた場所で梨子と他のメンバーが同じパフォーマンスをするようなニュアンス。
今回みたいにグループを2つに分けるのとは違う話である。

学校も大会もどちらか選べないから、2つに分けた。
しかし説明会組は、1つでなければ何かを成すことはできず、逆に2つに分けたままでは、学校も大会も失敗に終わると判断した。
物理的な早いタイミングで説明会組がそれに気づけば十分大会には間に合う。
奇しくも、説明会組は分割にあたり「それで本当にAqoursといえるの?」と述べた善子を始め、
一人一人ばらばらの自分たちが重なって一つの曲になる、ということを理解した雨の音の経験をしている。

説明会組が合流に際して伝えた言葉で、合流の理由ととれるのは「私たちは1つじゃないと」くらい。
彼女たちは説明会を諦める、という選択をしているが、それを気にしたり悔やんだりしている様子はない。
つまり、1つでないとそもそも何もできないということに対して強い確信があったと思われる。

 


そもそも説明会が大切で、全員揃う必要があるなら、大会組を呼び寄せるという手段もあったのでは?

 

 


新曲の歌詞
サンシャインは1期から物語とリンクした歌詞が特徴

 

挿入歌前後の切り替えを象徴するような歌詞

 

サビの「熱くなるため 人は生まれてきた」
熱と焔は縁語的


「命咲く 燃えている まだ小さな焔」
とは一人一人情熱を持ったAqoursメンバーそれぞれのこと?
「1つになれば キセキが生まれ」
ここはまさに2話で触れた通り1つの曲になるという気づきによるもの
そしてこれが3話に繋がる要素として「キセキ」の条件は「1つであること」だと分かる

 

「この世界がいつも 諦めない心に」
「答えじゃなく 道を探す 手がかりをくれるから」
この部分は直前のモノレールでみかん畑ルートに気づく千歌の姿に重なる。
2つに分けたのは失敗だったかもしれないし、キセキのような素晴らしい案はそういう意味では簡単に生まれてこない。
でも諦めなければ何か「道を探す 手がかり」が見つかるといえる。
この後のみかん畑ルート策定中する千歌の回想ラストの台詞
「道がある!」
という言葉にかかっている

 


大会終了直後
2年生の行動に黒澤姉妹を含め6人全員が驚いている。
→千歌はこれを知らせていなかった。ギリギリまでそもそも使えるか分かっていなかった?可能性として伝えなかったのは何故?リーダーとしてなんらかの判断?

 

逆に説明会組が持ち場を諦めての行動だったと分かる(といっても4人でライブしても効果は見込めないと判断している?

 

 


キセキを起こそうとするのではない
→キセキを頼りにする行動の否定でもある

みかん畑は間に合うか分からないルート、梨子が走りながらキセキは起こらないのかな、と言うことからも緻密なシミュレーションは行われておらず、
間に合わせるとしたら、これしかない、という認識か。
そのため全員でこれに懸けるという決断はしなかった
→そもそも説明会も大会も、というのが目標
しかし、それでもここまで考えるのは、諦めるという決断を下さないということ。

9人でないといけない、1つでないとできないことがある、
逆にこの9人でなら諦めなければ何でもできる(=キセキは起こせる)ということに、千歌は気づいたのか。
13話やキャストの言葉との重なり。

 

 

私たちにもキセキは起こせる
だって、虹がかかったもん

 

監督の言う、彼女たちの気持ちが変われば世界が変わる、という考え。
キセキの正体を掴み、諦めなければ自分たちにもキセキを起こせると信じるようになった。彼女たちの気持ちの変化。
天気がまるでAqoursのために虹をかける。

 

大会の会場からその場所まで諦めずに走ってきたからこそ、虹を見れた、説明会に間に合う
=監督の言う、気持ちがかたちとなって現実を超える瞬間

→キセキの象徴としての虹

君ここの舞台な一貫して9色メンバーカラーの虹
つまりキセキには9色あればこそ。

雨が虹を生む。
雨の音=1人1人のメンバー
メンバーの集合体=Aqours=曲
虹は7色だがこれはニュートンがドレミファソラシに対応させて決めた。
曲=ドレミファソラシの集まり=虹
この辺は少しこじつけ……

 

君ここのPVでは晴れたときに虹はかからない。
物語が動き出しているからこそ、虹がかかる?

 

この曲のアニメ上の扱いとして、
千歌の輝いている今の自分の気持ちを歌詞にしたもの
「夢にめざめたばかりの自分」

 

 

 

大会か学校か、どちらかなんて選べない、どっちも叶えたい
だから行く 諦めず 心が輝くほうへ

 

3話最大のテーマは学校と大会、自分たちを育ててくれた場所と自分たちが輝ける場所
この大事な2つどちらを選ぶのかということ。
アンサーはどっちか選べと言われても、どちらも選ぶという選択。諦めないこと。

そのために9人が1つであることの大切さを学び、
そのうえで千歌が諦めなければキセキを起こせるという。

 


輝きたいという欲求
諦めなければキセキは起こせるということ、
そのためには9人が必要ということ

 

(9人の必要性は重大なことだが千歌からは直接言及がない。
→それを言葉にしたのは鞠莉と果南。重要なことを千歌以外が口にすることから分かる、9人いることの重要性の一端?)

あのとき私が見たもの

先日、遂にAqours 1st Live Day2のBlu-rayを観た。
なんとなく、買ってすぐ見れなくて、でもこのタイミングで観てしまったので、
2nd Live Tour ファイナルの大きすぎるインパクトと共に脳内が洪水状態になってしまっている。

ファンとしての私にとっても、やはり1stの衝撃なしに今の自分は有り得ない。
だからこそ、まず、自分のブログで最初の記事でもあるDay2の「想いよひとつになれ」を観て思ったことをそのまま書いてみたい。

 


・ステージに見えた大きな隔たり

私が今回映像で「想いよひとつになれ」を観てある意味一番驚いたのが、階段の段数の少なさだった。
あの日現地にいた私には、ピアノを弾くために逢田さんが登った階段が、とても長くて高いものとして記憶されていた。しかし実際改めて観ると10段に満たない程度の長さでしかなかったのだ。

それでも私は確かに、階段の上と下との間に存在する境界を見ていた。
あのとき、逢田さんがピアノへと続く階段を登ったあの時間は、一瞬のようでいて、しかしとても長く感じた。それはあのステージで演奏をするまで彼女が登ってきた努力の追体験のようで、メンバーの中で1人ピアノに向かってきた故に現れた道にも思えた。
それはAqours加入前に梨子ちゃんがずっと歩んできたであろう道の姿にも似ていた。

ともかく、その光景は同じステージにいながら、まるでアニメの物語のように、逢田さんと他のメンバーが遠い別の場所にいるかのような印象を私に与えた。


そして始まる伊波さんのソロ、もしかしたらあのときの私には、その歌は遠く言葉の届かない場所にいる逢田さんを想った伊波さんの祈りに聴こえていたかもしれない。
届くか届かないか分からない、しかし強い想いが篭っているような響きだった。


しかしその直後、演奏が止まると、ステージの上へ駆け出す伊波さんをはじめとするメンバーの姿により、その境界は簡単に崩れ去った。

 

 

 

 

 

 

・あのとき私が見たもの

境界の無くなったステージで起きてることは、言い得ぬ現実性を帯びて私の目に映っていた気がする。
アニメと重ねて見ていた光景は、いつの間にか現実だけのものになっていた。
もう陳腐になるくらい言われたことかもしれないが、やはり私もあのときこれから起こる「物語」を信じていた。願っていた。


逢田さん以外のメンバーが自分の場所に戻ったあとのステージには、最初のときのような境界は依然消えたままだったような記憶がある。
ただ、やっぱり階段は高く長かったものだったし、遠い距離があるように思えた。

それでもメンバーが言葉に乗せたものは、もう祈りではなく、伝えたいメッセージとして確かに響いていた。
本来なら触れなれない遠い距離を越えて、想いを届けるために、1人1人が全力で手を伸ばし、逢田さんを掴もうとする歌とダンスがそこにはあった。
届け、届け、と叫んでいるようだった。


私はソリストは本質的に孤独な存在だと思っている。9人の音楽を、その瞬間だけは1人で奏でる責任が重くのしかかる。助けは物理的には存在し得ない。
仲間が自分に意識を集中させているだろうことは何となく伝わるが、目が合うことは決してない。ときに声が聴こえる。でも全てを聴くことはできない。
ソロを奏でるとき、その役目を担えるのは当然だが自分自身だけなのである。

それ故に全ての神経をそこに集中させる人も少なくないと思う。私も例に漏れず、演奏に瞬間し過ぎるせいか、本番でソロを演奏したときの記憶はほとんど曖昧だ。
指揮者のどこを見ていかも憶えていないし、どう吹いたかも思い出せないし、何を考えていたのかも定かではない。
周りの世界なんてほとんど知覚できていない。


あのときピアノを演奏する逢田さんの集中力は凄まじいものだったように思える。見るからに普通じゃない空気を放っていた。
大抵ああいうときはイヤモニの音を無意識の力で拾うのが精一杯だろう。
逢田さんは2回目の演奏について「ほとんど記憶がない」と言っている。

 

なので事実は分からない。
でも、私にはステージの1階と2階という届かない遠い遠い距離を越えて、メンバーが歌の端からダンスの指先から飛ばした想いが、確かに逢田さんへ届いているようだった。

 


想いが現実を超えて、物語の景色をつくった瞬間。それこそあのとき私が見たものである。

 

 

「梨子ちゃんが弾いてくれた」と、逢田さん。
それは逢田さんが必死にピアノを練習してその実力を身につけたから、生まれた感覚なのだろう。
でも、もしかしたら、あのギリギリの状態でコントロールできない要素をいつもの優しさでそっとサポートしてくれたのは、皆の想いの力でステージに立った10人目のアイドルの姿だったのかもしれない。

だから、ラブライブ!サンシャイン!!

Aqoursと夢

 

 

 

あなたは夢を持ったときのこと、覚えているだろうか?

 

 

 

 

 

 

作品にいろんな感想を持つのは、持つだけなら、それは個人の自由だ。

でも、人と夢の関係を、なんとなく忘れてしまっている人が多いのではないかと思った。

そんなことを思いつつの私なりの意見である。

 

 

 

・人が夢を持つとき

 

私は常々ラブライブ!において「夢」がキーワードだと思っている。

そしておおよそ現実問題として、人が夢を持つパターンは2つあると考えている。

 

1つ目は、自分が先陣を切って歩いている道の先に、何かが見えたとき

そしてもう1つは、誰かの姿に憧れたその瞬間である。

 

始めに断っておくが、この2つ優劣をつけるつもりは全くない。

どちらにも、もう一方にない難しさや葛藤がある。どちらの物語がその人にどれくらい刺さるかなんて、個性でしかない。

 

 

ただ、私は絶対数の問題として、人は後者の在り方で夢を持つ場合が多いのではないかと思っている。

 

思い出していて欲しい、幼い頃のぼんやりとした記憶でもいい。

あなたが夢を持った瞬間も、目に映る何かに強く心を奪われたからではなかっただろうか。

 

 

 

 

 

ラブライブ!サンシャイン!!という作品

 

この作品に私が思う強さとは、人の夢に正面からぶつかっていく姿勢だ。

作品と現実がリンクするこのコンテンツにおいて、今の方向がいかに正しいか個人的に考えていることを書いていきたい。

 

さて、私も常日頃、μ’sとの関係について沢山の意見を目にする。

最たるものはやはりμ’sを現実にも作品にも出しておきながら、その扱いが中途半端だ、というものである。この中途半端という言葉にもたくさんのニュアンスがあるだろうし、この場で具体的な反論をしても何一つ意味がない。

 

なので、ひとまず今の在り方を何故肯定的に捉えるべきなのかに触れる。

 

まず、そもそもμ’sの存在を持ち込むべきだったのかということから考えていきたい。

これについて私は100%持ち込むべきだったと主張している。

 

理由として第一に、現実と作品のリンクだ。

「夢」がキーワードたるこのコンテンツで、私は夢への動機がキャストとキャラクターで合致することこそ作品の心臓になるとみている。単純に活動への根源的欲求が一致しているのは無条件で強い説得力に繋がる。

これを前提にキャストの環境を考えると、まずラブライブ!というコンテンツに参加しようとするにあたり、当然だがμ’sを知らなかった者はいない。そして、先駆者の辿り着いた姿を見たからこそ、それに憧れ、その道を選んだのだろう。

彼女たちの夢は間違いなく、誰かの姿に憧れて抱いたものだった。

 

そして第二に、ラブライブ!という地続きを考えたときだ。

劇場版の「みんなの、スクールアイドルの、すばらしさを、これからも続いていく輝きを、多くの人に届けたい」という台詞。その前にある「これからもラブライブは広がっていく」という言葉もあいまって、未来の可能性に向けたエンディングだったと私は感じた。

μ’sという存在を除外するのは即ち、先駆者が未来を想い自らの物語に幕を閉じた世界を消すことである。プロジェクトが共に行き着いたスクールアイドルの重大な答えを抹消することに等しい。

確かに全く新しい世界で全く新たなスクールアイドルの概念を提示するという道もあっただろう。だが、それこそ初代のエッセンスと正面から対立しかねないと思う。

同じ答えを別の方法で提示しても、前提を同じ開拓者という立ち位置にする以上、違うルートで同じ答えに至るリメイクに過ぎない。

 

 

これらの理由により、私はサンシャイン!!が真にラブライブという名を冠して独立した作品になるには、作中に先代の姿があるべきだったと考えている。

そしてそれを踏まえると、Aqoursが「追いかける者の物語」になるのは必然だったのではないだろうか。即ち、現実でも作中でも先駆者の姿があってこそなのだから、夢へのアプローチは「誰かの姿への憧れ」以外ありえなかった。

 

そして憧れから出発をすると、その夢、本作の場合は「μ’sのようになりたい」と、どう向き合うかが重要な問題になってくる。肝は“のように”である。

つまり夢の本質は、μ’sになることではなく、自分たちはどうすれば強い輝きを放つスクールアイドルになれるかであった。あくまでμ’sは代表例に近い存在といえる。

でも、現実として自分の夢のきっかけは、いつまでもヒーローだ。

それ故、世の中の夢を追う人は自分自身になるために、常に戦っているのだと思う。

この問題に正面からぶつかっていった1期のAqoursは、物語終盤で遂に進むべき道を見出した。もしかしたらこの後、自分であるための大きな戦いが待っているかもしれない。

 

 

 

 

・点か線か

 

サンシャイン!!アニメ本編でμ'sの扱い、解釈について、どうあるべきかという議論もある。

主に2パターンあって、

1つはスタッフがμ'sの活動をほぼ網羅している以上、線として活動を解釈しより正しく登場させるべき、という立場

2つは千歌ちゃんたちがμ'sの活動を雑誌等で通して容易に知ることの出来る、点としての要素のピックアップで良い、という立場

だと私は考えている。

個人的には後者の立場で、物語上ある程度は無茶できるとしても、あまりに線で捉えられていたら、その知識はどこから仕入れたものかと疑問に思うし、それほど盤石な解釈をみせるならそれはμ'sの物語に片足突っ込むことになるように感じる。これは主観でしかないが。

ただ私個人がそもそも当時μ'sについてアニメと映画本編を一度見た程度の知識しかなかったこともあってか、作中での扱いや解釈については正直全く違和感はなかったことは述べてく。そういう意味ではリアルさもあったし、Aqoursから本格参入した身としてはちゃんとAqoursの物語に集中できた。

 

作品解釈の正解不正解について議論はあるだろうが、

点での引用でありつつ、ちゃんとエッセンスを抽出できていたのではないかと思う。

ややアクロバットな根拠だが、

線と点の対立は概ねサンシャイン!!が無印を正しく引用できたかどうかによるという前提で、

つまりまず作品解釈については、答えがあるという共通意識があるはずだ。

そして、作品の答えは作者に帰属する以外はありえない。受け手が決めていいなら答えは無限に存在するし、最悪そう結論付けても許されることになる。

我々は作品の答えについて、作り手から見出そうとするしかない。

今回の場合は、無印とサンシャイン!!の作り手が全く同じでないからこそ問題が複雑である。ただ、サンシャイン!!における無印の正解はサンシャイン!!にしかない。

そして前任者がプロジェクトを去った以上、現スタッフの解釈を正解としない限り、受け手の解釈が1つなるなんて有りえないので、答えが不在になってしまうという問題もある。

また、それでも、解釈が無印の制作者のそれと異なるというのであれば、その言葉が自分にも返ってくることを忘れてはならない。

 

 

 

 

・引用の手段は正しかったのか

 

つまりサンシャイン!!で伝えたかったことを表現するために引用されたμ'sの姿は適切だったのかという問題だ。言い換えれば、本編メッセージを表現するのに例えばμ's各メンバーをあのように表現するべきだったのかという話である。

だが、これは最初からあってないような問題である。

というのも作品において伝え方もまた一つのメッセージだからだ。

私の領域での例えで恐縮だが、例えば人の喜びや悲しみは、古今東西様々な音楽で表現されてきた。しかし、1つとして同じ表現は存在していない。

喜びを表現するのであれば、ベートーヴェンの第九から歓喜のテーマを流用すれば、クラシックの人間なら的確にその意図を把握するだろう。だが、そんなことをする作曲家は存在せず、歴代の偉人たちは必死に自身の喜びを伝えるテーマを考えてきた。

それはとても簡単なことだ。この世において人の喜びもまた、1つとして同じものは存在しないのだ。別々の人生を歩んできた人たちが、同じものに対して感動したとして、全く均質な感情の動きをするなんてありえない。

自分自身の言葉でその感情を語る必要がある。

そう考えれば、その表現自体が、伝えたいことに対して重要な意味を持っていることが分かる。

 

ちなみに世の中には「~主題による変奏曲」というクラシック音楽作品が存在する。

こういった作品は過去の有名作品の1フレーズなりをとってきて、元の曲で与えられた意味から離して、自身の作品内であれこれ料理するといったものだ。

このジャンルであっても、今なお演奏されている曲も多く、芸術的価値が高いとされている作品がある。

結局我々が考えるべきなのは、その作品自体なのだ。作品そのものの狙い、引用の意図を考えるのに、引用されたもの本来の要素が役に立つときもある。でもそれだけだ。

引用の仕方の正解は、その作品の中にしかない。材料本来の解釈は、その作品の評価に何の意味も及ぼさない。それは引用された作品の話である。

もしその表現の意図を、その正解を受け入れられなかったら、それは作品の優劣ではなく、残念ながらその人の好みでしかない。

 

好みの話題に付随すると、より多くの人に受け入れられれば受け入れられるほど優れた作品なのかという問題がある。

これは全くのナンセンスであり、誰にでも伝わる1+1=2は残念ながら表現ではなく、ただの記号化されたロジックに過ぎない。

そもそもラブライブ!は大多数に受け入れられる存在を目指すより前に、まず「自分たちらしくあること」の重要性が説かれた作品ではなかったか。

 

 

 

 

 

・現実と物語の具体的なリンク

 

そもそもこの問題もどこまでが無視される前提なのか、なかなか決め難い。結局個人の趣味の範疇による。

例えば、時間の有限性はリンクしていても、キャストは女子高生じゃないからリンクしないとか言い始めたらコンテンツのある種崩壊だ。

私は環境の重大な要素にこそ重なる部分があるべきだと考えている。前述の杜撰な例だと、スクールアイドルをスクールアイドル足らしめる要素とは、「女子高生」ではなく「時間の有限性」だ。

 

この発想に基づくと、Aqoursの現実と物語の合致は、夢への道筋によく表れている。

 

まず、前述のとおり、根源的な夢への同期がリンクしている。これについては前述の通りだ。

そしてキャストのメルパルクホールでの初公演。憧れからスタートし、不安と期待の入り混じった本番、世間にμ’sを知っている者が多いからこそ、自分たちがまだ何も見せられていない時点で席が埋まるか本人たちも不安だったのかもしれない。

逆に、μ’sを知っている者が多いからこそ席が埋まった本番でもあった。

偉大な先駆者ありきの初ステージ、まさにアニメの体育館講演である。

 

アニメ1期放送期間付近のキャストの姿を思い返すと、アニメで動くキャラクターを見て、演技や自身のライブパフォーマンスにそれまで以上に悩んでいた印象がある。

そして高槻かなこさんの「みんなと比べなくてもいいんだ」「私は私でいいんだ」という自身の演技への思いの変化、そして自分なりに国木田花丸を研究しそれを正解にしていく姿から象徴されるように(といってもこれは私が高槻さん推しなのでこのエピソードを代表例にしてしまっているだけなのだが)、まさに他者の影を越えて、「自分自身になる」重要な期間であった。

それはμ’sのようになるには、夢を叶えるには、なりたい姿になるにはどうしたらいいのか、必死に考えていた作品中でのAqoursの姿に重なる。

目標に至るために、現実でも作品でも、他者との関係と自分自身の在り方という大きな壁に悩んでいた。

 

 

その成果はご存知1st Liveで存分に披露された。各キャストが各キャラクターとして挑んだ大舞台では、ああこのキャラクターならこういうダンスの動き、こういう歌い方をするな、と納得できる説得力があった。

あの日を境に、世間におけるAqoursが“相対”から“絶対”になったように思える。

これもまた高槻さんの言葉だが「『これがAqoursだ!』っていうものを示せた時間になったな、と思います」というインタビューをみてそんな実感を確信したことを覚えている。

 

アニメでも最終話でのライブは、自分たちを唯一の存在として認識し、自分たちだけの道を歩み始めた姿が描かれた。

「追いかける者」の物語は、多くの悩みを越えて「自分自身」になれたとき、ようやく幕を開ける。本当の意味で自分自身の未知なる世界が拓ける。

そういう意味で『MIRAI TICKET』という曲はまさにそれに即していた。

≪みんな みんな 迷いながら ここへ辿り着いたね これからだよ≫

≪あこがれ抱きしめて 次へ進むんだ≫

という歌詞にAqoursと夢の関係がよく表れているなと感じている。

 

「0 to 1」というテーマのもと、始まりの終わりで、現実も作品も「Aqours自身」になったのではないだろうか。

 

 

 

 

 

☆更にラブライブ!サンシャイン!!

 

 

 

・この物語は是か非か

 

ナンセンスな問いである。サンシャイン!!は「追う者」としての物語を正面から歩んでいる。意欲的かつ都合主義でもなく、なおかつ変化球ではない。

先代と比べて人を選ぶようになったという意見もあるが、反面私のようにここから強くラブライブ!に入り込んだ人間もいる。

より多くの人に伝わるべき?それは作品から論理を取っ払うか、火は熱いとだけ言うようにすればよい。虚しいこと限りない。

無印劇場版は特に素晴らしい作品であった。でもあの作品の本質はアニメ本編への一定の理解があってこそ伝わるように感じる。リテラシーという点では大いに人を選んでいるのではないか。でも、だからこそメッセージが重いのだ。

 

 

 

 

μ’sAqoursどちらが優れたコンテンツか

 

ナンセンスな問いである。クラシック奏者の私から言わせてみれば大真面目に世界史上最も優れた音楽家を決めるようなものだ。それぞれにそれぞれの意義がある。

どういった視点に重きを置くかで結論は変わるうえに、総合的に考えるなんてことがそもそも不可能だ。1つ1つの価値観の優劣さえ決められないのに、何故包括的な視野で判断ができるのか。

 

 

 

 

ラブライブ!とは

 

サンシャイン!!はラブライブ!の名前を冠していながら、ラブライブ!を誤用しているといった意見もある。

残念ながら事実はその逆だ。公式が今なお引き継いだ要素こそラブライブ!のエッセンスである。つまり、そういった意見を述べる人こそラブライブ!を誤用している可能性が高い。

繰り返しになるが、作品の根幹、共有されるべき正解は作り手にしかない。プロジェクトで共有され続けるモノこそがラブライブ!である。

 

 

 

 

 

・プロ意識という言葉

 

先日Twitter上でフォロワーの方が、プロ意識とはそもそもなんだ、というような投げかけをされていた。

私はプロ意識について「その道で生きていく覚悟」だと考えている。

この1つ前の記事で延々と書いたのだが、私は先日一介のアマチュア音楽家でありながら、プロオーケストラに参加させていただいた。

そこで私が身をもって理解したのは圧倒的なまでの意識の差であった。アマチュアからみたら、そこまでやるのか、ということをさも当然のごとくやっていた。

私にとっての特別は、プロにとって当たり前なのだとようやく理解した。

それこそが技術といった誰でもわかる表面的な差に、それも埋まることのないものとして、現実になっている。

明日さえも分からないときがある、芸能の世界で生きていく人たちは、言葉の通りそこに人生を懸けていた。それを可能にする能力と、それを支える意識があった。存在こそ知っていたつもりだったが、その熱量は恐ろしいものだった。

 

なんとなく、私が受ける印象だが、逢田さんのプロ意識はその点で凄まじい熱量を感じている。

1stでのピアノについてはブログの最初の記事にも触れたように、楽器を長年やっている身として本当に異常としかいえないレベルだった。パフォーマンスだけじゃない、そこまでの技術とそこに至る積み重ねとその根底の意識がだ。

初めて『君のこころは輝いてるかい?』を披露したときの逢田さんの歌を聴いたとき、特段私は感想を抱かなかった。

でも最近はどうだろうか。ライブでも音程やテンポの安定感はあるし、特に2nd Live 神戸公演Guilty Kissで入りにミスがあったとき自然すぎる復帰の仕方には目を見張るものがあった。落ちたところに戻ろうとすると特に最初の一音はリズムがぶれやすく、次の二音目が短くなるか、長くなるか、そもそもリズム自体が前に転ぶか遅れてしまうかになる場合が普通だ。

しかしそこに違和感なく戻るテンポ感は生まれ持った能力と、なによりそれができるようになるまで研鑽する姿を想起した。

『Landing action Yeah!!』のSolo ver.では冒頭のリズムと強拍の難易度が高いメロディを見事に歌っていた。メンバートップクラスの技術である。

音楽は練習してないことができるようになるほど甘くない。最初の印象を踏まえると、現在の水準は驚くべきことである。

8/29のインスタグラム投稿も読み手を惹きつけるものであった。

これほどまでの現在のレベルに「きっとこんなんじゃ終わらない」と言う意識。

我々アマチュアであれば、到達さえ難しく、故に手放しに喜びそうな成長に対して「こんなんじゃ終わらない」という言葉が出てくるのは、やはりその世界で生きていく人たち特有の意識に思える。

 

これも、なんとなくなのだが、逢田さんは2ndでのミスについてとんでもなく悔しく思っているのではないかという気がした。歌もダンスもどんどん成長しているのに、貪欲すぎる言葉を発する意識の持ち主が、あれらのことを是としているようには到底思えないのだ。

それでも、彼女はアイドルだからこそ、ミスに対してステージではそういった気持ちをみせずに笑う。そんな可能性を思う。きっとアイドルにとってそのときベストな選択を彼女はしたように感じている。

 

私でさえ本番のミスは頭にこびりつく。だから次は絶対にそれを越えてやろうと思う。

そのためにひたすら練習を積む。

舞台に立つ者にとってミスは本当に重い。完璧にやり遂げる難しさは嫌というほど分かっていても、許されないと、プロにとってはあり得ないとまで思う。音楽の専門でもダンスの専門でもない彼女たちは、それでもミスを越えるために、自分たちの本当のパフォーマンスのために、今日も戦っているかもしれない。

 

 

・私が見た理想郷

 

2nd Liveで2期のPVが発表された。

千歌ちゃんが「私たちは輝ける。頑張れば絶対って、そう感じたんだ。」そう言っていた。

私はこの言葉をずっと忘れないと思う。

我々は挫折を経て、頑張っても必ずそれが報われるとは限らないと学ぶ。それが真理だ。他の人も頑張っているのだからそれは当然なんだと思う。

千歌ちゃんだってそうだ。1期で頑張ったのに輝けなかった、という経験をした。

それでも、頑張れば絶対に輝けると力強く、そう言った。

青春という限られた時間、彼女たちは頑張れば絶対に何者かになれると知っている。

頑張り続けた先に、輝きがあると知っている。

きっとそこは様々な壁があることを理解しつつも、諦めず果敢に進んでいった先にある、特別な輝きなのだろう。

それはあのとき、私たちが心のどこかで願っていた夢なのかもしれない。

完全に私的なこと、interlude的な何か

最初のブログ記事でも書いたように私はアマチュアのクラシック演奏家である。
基本的には吹奏楽で活動していて、たまに声がかかったらオーケストラにも参加する。


そんな一介の一般人たる私に先日とんでもない話がきた。
プロのオーケストラから、次回のベートーヴェン交響曲第9番の演奏に参加して欲しいとの依頼であった。

ご存知第九は、世間一般に広く知れ渡り、事実それだけの音楽性芸術性、そしてその先のメッセージ性を持っている。
声楽のソリストに合唱を加えた4楽章は規模の大きさもあり、アマチュアではなかなか演奏機会がなく、多くのアマチュア奏者にとっていつかは演奏してみたいと憧れる曲だ。
私の楽器も重要な役目があり、その楽器の奏者であれば通らなければならない道とも言われている。
ただともかく難しい。本物のプロが実質演奏不能だと文句を言うほどである。


そんな事情もあって本当に驚いたし、受けるかどうか迷いも多分にあった。


もう10年以上前のことになるが、高校に入学し、憧れをもって楽器を始めたが、
すぐに自分の能力に絶望してプロへの夢を諦めた。
それでも音楽が好きで好きで仕方なくて、趣味としてしぶとく続けてきた身である。
大学の頃には純粋な驚きで、仲の良い同期に「なんで音楽やってるの?」と聞かれたことさえあるくらいに生まれもってのものがなかった。
そんな自分が果たしてそんな舞台に上がって良いものか、周りのレベルの高さを台無しにしない音楽ができるのか、プロの演奏を聴きに来たお客さんに良い時間を過ごしてもらえるか、
気にするべきことは死ぬほどあった。

でもそのステージたった一つで、今後一生で得ることができないことが手に入る気がした。
結局普段プロじゃなくてもどこまでも行けるところまでやろうと思ってるのだから、頑張るのは変わらない。
音楽に、オーケストラに、お客さんに、要求される水準までいけないだろうけど、
それでも今回だけは自分を優先して、本当に目立つところだけに練習を集中して、そこだけは仮にでもプロになろうと思った。

自分の長年の大きな夢を、叶えるときがきた。

 

 

プロオケは当然だがともかく合わせが少ない。諸々の事情もあって今回も前日リハから私は入ることになった。
周りの音出しを聴いた瞬間に、場違いとはこのことか、と思った。
全国的に名前が知れてる上手いアマチュア奏者と何度か一緒のステージに上がったことはあったが、プロは、ワケが違う。
ステージ越しにしか聴いたことのないような音を出す人に囲まれた事実に気づいたとき、私は初めて音出しにさえ抵抗を感じた。


合奏が始まると更に現実を知った。
他の奏者にとっても前日リハが実質初合わせだったのだが、
指揮への食いつき、アンサンブル力が雲泥の差であった。
普段ともかく合奏を重ねるアマチュア吹奏楽団は、細かく指揮者と棒の振り方にコンセンサスをとって曲を作っていく。
だが、プロオケではそんなことは突然行われない。次々変化していく常にリズムを感じ、曲をスコアのレベルで頭に入れ、指揮のピンポイントな指示に的確に反応していく。
我々アマチュアは楽譜に食いつくな指揮を見ろ、と言われることなら少なからずあるのだが、
今回においては指揮棒を見すぎてるもっと周りを聴けと(そもそもかなり高度にアンサンブルできているのだが)指揮者が注意する場面もあった。

第九は決して簡単な譜面じゃないパートもあり、しかも演奏時間も1時間を越えるため音符数も膨大で、
マチュアからしたら人間完璧でない以上どこまでミスを減らすことができるか、という側面もあるのだが、
リハ本番を通してともかくプロはミスをしない。音が濁ることもなく高速パッセージも正しい音を正しいテンポで正しい表現に則して演奏していく。

やってきている練習が、踏んできた本番が、いや何もかもが別世界だった。

 


当日リハ、一度だけ一拍早く音を入れてしまった。
あの感覚は多分しばらく忘れられない。
周りの肌がざわつくような空気と、指揮者の目。
私は生まれて初めて冷や汗が流れた。本当にこういうとき汗が流れるのか、と変に冷静になった。音が未だやったことない震え方をした。

プロのステージの恐ろしさの一端を見た気がした。アマチュアが頑張ってなんとかするレベルのことは「当然」だし、リハであってもミスは「ありえない」ことだと、
この当たり前がこの世界ではどれほど当たり前か知った。

 


本番のことは、あまりハッキリ覚えていない。
ともかくミスはしない、正しく、この水準で、そんなことをひたすら考えていたと思う。
重要な場面に入った瞬間は完全に、演奏の意識的なコントロールはできなかった。決して悪い意味ではない。全ての意識が半ば勝手に指揮と周りの音と自分自身の演奏に向いていたと思う。
少なくとも、その僅かな最重要部分をミスなく吹くことができた。それだけは覚えている。
でもそれに喜べるような時間も、余裕も、達成感も無かった。
その後も正しく、楽器の役目を果たさなければならない。
周りの刺すような集中力のなか70分の本番をなんとか終えた。

お客さんから拍手をもらうと、やっと、普段なら「ああ、なんとかこの反応をもらえるくらいの演奏はできたんだな」といった安堵感を得られる。
今回は、この拍手は私には向けられていないな、と自分で素直にそう思った。実力差からして当然といえば当然なのだが、本当にここまで音楽に貢献できなかったと思ったことはない。

 

 

 

得られたものは想像を遙かに超えたと思う。
技術面でも特に自分はこの辺にとんでもない差がプロとはある、と知れたし、
場数という意味でももっとオーケストラを経験しなければと思った。
マチュアとプロのステージへの意識レベルの差を身を以て知って、
それに近い意識で普段もっと練習しなければ、これからの前進など夢の夢だと分かった。


コンクールで全国区のバンドに所属して、かなり奏者としての意識は変わったつもりでいたが、
一流の人たちは練習も本番も、当たり前の水準が根本的に違った。
これが今回1番の収穫かもしれない。


プロの圧倒的な実力と意識に触れ、やっぱり当たり前だけど一生逆立ちしたって横に並べるわけがないと、理解した。
でももしかしたらあと数十年頑張れば、差が少しだけ縮まるかもしれない。そんな傲慢さと共にこれからも精進したい。

 


嬉しいこともあった。
同属の楽器の奏者に今回、私だけが音大卒でさえないただのアマチュアのようだ、と伝えたら、えっ良い音色してるのに!と言ってもらえた。
この点については、自分が自信を持っていい部分として大切にしなければならない。

 


たった1度の本番で、視野は広がったかもしれない。やっぱりプロとして舞台に立つのは相当のことだと体感できたのも大きい。
そんな大舞台で、ここぞという瞬間に人はどうなるのか確かにやってみないと分からないなと、良い感情悪い感情ひっくるめてそう思えた。

 

叶うと思っていたかった10年越しの夢は、どうやらその達成と共に、まだまだその先へ進めと強く私を引っ叩いてるようだ。
あくまでステージに立つのは夢の外見でしかなくて、そこで演奏したいものこそ自分の夢の本質かもしれない。
いつか、また、これほどのステージで、心からの音楽をしたい。

Aqours 2nd Live 神戸公演の私的印象

Aqours 2nd Live 神戸公演初日、「緊張感に欠けた」ようなミスが幾つかあったように思える。
そして今までの公演で生じたものとは、タイプが違う印象を受けた。


ライブツアーも残すところは埼玉のみとなった。そんなときだからこそ、今回はあえてステージ上のミスについて思うところを書いてみたい。

 

 

・コントロールできないミス、できるミス

私はステージ上で起こりうるそれについて、まず簡単にこの2つに分けている。
こういうと後者は矛盾しているように感じるかもしれないが、あくまで自身の能力でコントロールし得る範囲で生じたミス、ということだ。
単純にペーパーテストでいうと前者は純粋に問題が解けなかった場合のミス、後者はケアレスミスと考えてもらえたら良いかと思う。

人によっては前者のそれをミスということに疑問はあるかもしれないが、ステージ上ではその人の能力に関係なく最低限要求されるべきもの、即ち決まっている歌の音やダンスのフリがある。
それを達成できなかったとき、お客さんにはステージに上がる人間の能力は関係なく、あくまで失敗として認識されるのを忘れてはいけない。


思い返せばAqoursは、ある種の背伸びを要求された場面が印象に残っている。
メルパルクホールでは活動初期ということで、まだまだ歌もダンスも台本(今回においては楽譜や決まっている振り付け)通りのそれではなかった。しかしラブライブ!という枠では地続きということもあり、決して本人たちにとってもチュートリアルレベルのものではなかったように思える。
それからも曲数を含めて徐々に難易度がステップアップしていくステージ。彼女たちのステージが常に挑戦的だからこそ、我々はAqoursの成長と前進を、とても分かりやすく見ることができた。

そして辿り着いた1st Live、
各々のステージにとって、始まりの集大成だったと思う。そこでも、メンバーの果敢な姿を沢山見ることができた。
特に楽器をやってる人間としては、ピアノは気持ちだけではどうにもならないものだと痛いほど分かってるから、逢田さんの姿には本当に驚いた。


おそらくここまでで生じた失敗は、1st Liveの逢田さんの姿に象徴されるように、
自身の能力と届きたいパフォーマンスのギリギリの鬩ぎ合いで生じたものではないだろうか。
常に良い意味で身の丈以上の挑戦をしてしたからこそ生まれたミス、
つまり本人のキャパシティを超えるコントロール不能なミスだったと私は考えている。

それ故に物語として、今も当時届かなかった瞬間があったことがその克服と共にファンの間で語られてるのだろう。

 

では、今回の2nd Live 神戸公演を考えてみる。

あくまで個人の印象だが特にMCを中心に、今までよりも更にリラックスしているような印象を受けた。
キャスト同士の掛け合いも自由さが出ているというか、その場のアドリブ要素がいつも以上に強いと感じる場面も少なくなかった。

ダンスでも各々のアドリブやアレンジではないかと思える動き(それがどこまで本人の自由意志によるものかは分からないのだが)も増えていた。

そして今回のLiveで僅かに顔を出したミスもその延長線だったのではないかと思う。おそらく本人達にとってもリハではなんでもなかっただろうところでの思わぬ失敗だったのではないだろうか。
本当に他のことに、おそらく台本以外のことに、気を向けてしまったばかりに起こったミス。
1つ1つの行動にもっと集中して意識を割けば、今の彼女達なら防げるレベルのことだった。
らしからぬ姿に少々面喰らったファンもいるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、私はこれらのミスを目にしたとき、彼女たちの変わらぬ「挑戦」を確信した。

 

シンプルな話である。あんなにもストイックでプロ意識に溢れるAqoursが台本以外のところへより目を向け始めたのだ。

今回初披露の曲だって相変わらず歌もダンス難しい。
にも関わらず、Aqoursはそれをシナリオ通り達成するだけでは満足していないと私は感じた。
その場でやるべきと思ったことをやる発想力と行動力と大胆さ。そういったものをステージの節々から感じ取れた。

間違いなく彼女たちはステージの経験を、凄まじい速度で着実に積んできた。そして今、実力と経験を武器にそれまでの緊張から解放され、明らかにコントロールするステージの範囲が広がってきている。
舞台上でより自由に振る舞うには、ステージをより支配しないことには叶わない。
1st Liveから僅か半年前にして、そういったパフォーマンスの段階に入ってきていることに、
やはりAqoursは我々の想定の範疇に収まらないことを改めて強く認識するしかない。


しかし良い意味でまだ成長中でもあるのがAqoursだ。
緊張から今まで以上に自由になって、本番のステージ上で見えるようになった情報は少なくないだろう。その分、それらの情報をどう処理するか、苦戦することもあると思う。まだ全てに意識が届ききらない場面もあると思う。
これから先、彼女たちが完全にステージを掴んだ瞬間、何が起こるのか本当に楽しみだ。
私なんかでは到底想像できない、素敵なライブが待っているのだろう。

 

常に挑戦を前提とされた台本と戦ってきたAqoursがそれを乗り越え、
しかもその先で今までの壁に満足せず、更に我々を楽しませ自分たちも楽しむためのパフォーマンスを披露してきた。
やはりどこまでも圧倒的にプロなのだ。


1人のファンにとして、これほど嬉しいキャストの意識はない。

Aqoursのパフォーマンスにおける「正解と不正解」

 

「パフォーマンスにおける正解とは何か」

 

 

 

 

おそらく文化活動で客観的に自身の表現に向き合うようになれたとき、

多くの人がぶつかる問題の1つの極致ではないかと思う。

 

というのも自身の表現を一歩離れて見つめ直したとき、

こうした方がいいんじゃないか、こうしない方がいいんじゃないか、

というレベルで葛藤するのは特に音楽等に関わる人間にとって不可避なことであるからだ。

 

しかし「正解か不正解か」という観点は文化活動の分野において、

果たしてそもそも存在するのか分からない。

 

 

 

なんにせよ「正解・不正解」というレベルでの判断は、

自身の表現を評価する能力が相当に長けていないとできないし、

そこまではっきりと断ずる強い意志が必要である。

 

 

私個人の吹奏楽やオーケストラでの経験から考えても、

音楽表現に「正解・不正解」という言葉を使うのは事実として、

国内でも指折りの実力を持つ指揮者くらいであった。

 

 

 

 

 

だからこそ私には大変驚き、印象に残っているAqoursキャストのインタビューがある。

 

「ほとんど(の曲)が初披露だったけど、1曲終わるたびに喜んでくれると、『あっ、正解だった』っていう気持ちがあったよね」

 

株式会社ロッキング・オン 月刊カット5月号 73頁

Aqours 1st Liveについて高槻かなこさんのコメントである。

 

 

この感覚のニュアンスはパフォーマンス中において大切な感覚で、

私自身もポップス系の曲を演奏する際によく感じている。

 

というのも、お客さんにどうしたら楽しんでもらえるかいくら考えても、

練習場には録音機器と鏡しかないわけで、そこに自分が求める答えは映らないのだ。

 

 

ステージに立って、お客さんと向き合って始めて自分が磨いてきた表現が間違いではなかったと知ることができる。

いくら厳しい練習を積み重ねても、当日その日を迎えるまで常に自分の努力はこの方向でよいのか常に不安と隣り合わせだ。

 

お客さんが喜ぶツボみたなものはやはり実際にステージを重ねないと分からないものだ。高槻さんはステージ経験自体はまだ浅いこともあり、そのツボの感覚はこれからまだまだ伸びていくものだと思われる。

1stではインタビューの答えにある通り、本番中1曲1曲確かめていくような感覚だったのだろう。

 

 

 

 

そんな不確かさに囲まれたなかで、彼女は何故自分達のパフォーマンスに「正解」という言葉を使えたのだろうか。

 

 

その理由の一端が以下のインタビューから感じられた。

 

会場に圧倒されないように、歌やダンスのパフォーマンスに関しては、かなり自信が持てるぐらいまで練習を重ねました。

 

株式会社学研プラス 月刊声優アニメディア5月号 35頁

 

初めての大舞台に挑むにあたり、かなり自信が持てるほどの積み重ね、

これが「正解」という言葉が出てくる1つの根拠に思える。

 

 

 

例えば、ある目標達成に及ばなかったアプローチを考えたとき、

果たして自分に足りなかったのは努力の量か、方向性か、簡単には分からない。

そして努力の量については、結局やったかやってないか、あるいはどこまでやったか、というレベルの話なので「正解」という言葉が使われるようには思えない。

 

 

少なくとも向上心が強く練習に熱心な音楽家で、努力の量に正解不正解という言葉を使う人を私は見たことがない。

 

 

 

 

インタビューで分かる通り、彼女は1st Liveにおいて努力の量が心配になる世界にはもういなかった。

「歌やダンスのパフォーマンスに関しては、かなり自信が持てた」という表現から、

自身の決めた方向性において、十分な表現ができると思えるくらい純粋な技術面においては不安がなかったのだろう。

 

 

 

問題が表現の方向性に集中していたからこそ「正解・不正解」のレベルで自分のパフォーマンスを考えられる段階にいたのではないだろうか。

 

 

 

 

では高槻かなこさんが目指した方向性とは何か。

これは「国木田花丸としてステージに立ち、お客さんを楽しませる」ということではないかと私は考えている。

 

以下のご本人のコメントを根拠として紹介したい。

 

(ミュージカル場面でまばたきといった細部までアニメに合わせたいという発言について、何故そこまでこだわりたかったのかという質問に対して)

あの場所(1st Live)に“国木田花丸”として立ちたかったからです。(中略)「花丸ちゃん」として観てもらえるか不安もすごくあったんです。

 

株式会社山栄プロセス リスアニ!Vol.29 24頁

 

私が私としてステージに立つのではなく、ステージに立つ花丸ちゃんがどうしたら可愛くなるかの研究。
その時は一生懸命すぎて自然にやってたけど、今思えばそう。
あの二日間、確かに私はマルちゃんでした。
誰に何と言われても!

 

本人Instagram(kanako.tktk 3/9投稿より

 

その他にもいくつかの場面で国木田花丸とのギャップに悩んでいたこと、

そして国木田花丸としてライブのステージに立ちたかったことを言及されていた。

 

 

花丸ちゃんとしてステージに挑むために高槻さんは本当にそのときできるあらゆることをやってきたのではないかと思う。

それでも、それが正しかったのか幕が上がるまで決して分からないのだ。

そして本番お客さんの反応をみて「自身が国木田花丸としてライブに立てている」と確信したのかもしれない。

 

高槻さんが「正解」だったとはっきり言えたのは、

中途半端に方向性をぼやけさせず、自身が目指すもののためにはっきりと彼女がポジションをとったからこそではないかと私は思う。

 

 

音楽において中途半端な表現は誰にも刺さらないし、それは自分の答えを出しているとは到底言えない。

これが自分のパフォーマンスだ、答えだ、とはっきり言うには人間それだけの根拠をもって自身の立場を明らかにしなければならない。少しでも誤魔化そうと思ったり、詰めを甘くしてはいけないのだ。

 

 

 

 

「正解」という表現に至るまで、私などでは想像できない様々なことがあったと思う。

そしてその先へと越えていったのだろう。そんな考えをかき立てられる言葉であった。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、ここに1つ大きな問題があるように思える。

 

 

 

それは、我々オーディエンスが完璧な聴衆ではないということだ。

 

 

キャストの方々が「お客さんを楽しませる」という目標を掲げたときに、

その結果の成否は全て我々の反応によって決まる。

このときは特に何も問題は起きない。

 

 

 

一方、「キャラクターとして」という目標が掲げられたとき、

その成否はどう判断されるべきなのだろうか。

 

 

私には、例えばより多くの人が「キャラクターらしい」と判断するパフォーマンスが「正解」とは到底思えないのだ。

世の中に音楽のための音楽が間違いなく存在するように、

演技のための演技もまた存在するのではないだろうか。

 

 

もし存在するとしたら、それは果たして一般大衆に伝わるものなのだろうか。

 

 

 

オーケストラという場において、はっきり言うと分かる人だけ分かればいいという暗黙の了解も少なからずある場合が存在する。

同じオーケストラの同じ指揮者による同じ日の同じ曲の録音でも音楽が違うときがあるのだが、

おそらく普段からクラシックに慣れ親しんでいないとほとんど伝わらないだろう。

 

だがそれで問題ない。

気づける人だけが、その音楽の違いに気づくことができればそれで間違いなく十分なのだ。わざと過度にその違いを強調するほうがよっぽどナンセンスである。

 

 

 

分かりやすくより多くの聴衆を興奮させることと、僅かなとこでより音楽的に表現することを比べたとき、

基本的には後者が圧倒的に重要なのである。

 

何故なら音楽的であることがクラシックの求める世界だからである。

 

だが、より音楽的だという判断はどう成されるべきなのか…...

 

 

 

 

Aqoursのライブで「よりキャラクターらしいパフォーマンス」と「より多くのお客さんが喜ぶパフォーマンス」と2つのパラメーターをとったとき、

超越的視点でみたときその2つが最も高いレベルで調和している状態と、

より多くの人がそう感じる状態は果たして一致するのだろうか。

 

一般に多く伝わる表現と演技のための演技、どちらを重視するのが正しいあり方なのか。

後者が重要だとしたら我々はそれに気づけるようにあるべきなのだろうか。

 

 

 

キャストがキャラクターの1番の理解者としたとき、

我々はどこまでその視点を共有できるのであろうか。

 

 

 

 

 

Aqoursの出す「真の正解」が「事実として正解」になるよう、

キャストの方々に置いていかれないようAqours18人を少しでも理解できたらいいなと、そんなことを考えている。